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#10 遠慮はモルグに捨てて<初収穫編>

こんばんは。ご無沙汰しております。
皆様いかがお過ごしでしょうか。

梅雨などつゆ知らず、ひたすらに暑い日が続いていますね。

くれぐれも熱中症にはお気を付けください。

かく言う僕は、今年に入って冷房服が神っぽいなこれと気付きました。

さて、前回までのあらすじです。

<前回のあらすじ>
いくつかの別れと出会いを経て、いちごのシーズンがいよいよスタート。僕は生まれて初めての定植作業を行いました。

今回の記事では「初収穫」までについて書いていこうと思います。

凪のような毎日

定植直後の苗は半病人のようだと師匠は言いました。

ゆえに培土にしっかり根が張るまで、灌水回数やタイミングに問題がないか常に考え、入念に気を配らなければならないと。

この時期からちょうど座学が始まりました。

いちごの生態、栽培管理の考え方、資材や機材の特性など、時には外部の講師を招いてくださり、知識と実用を学びます。

販売準備も研修生が主体となって行いました。
昨シーズンまでを経験したスタッフがオブザーバーの下、いちごの直売といちごの狩りを提供するための具体的なスケジュールを立てていきます。

正直申しますと、僕は若々しい株の様子を観察しながら、この子たちが煌々たる赤い果実を実らせるイメージがまだ頭に浮かびませんでした。

株はこの大きさで大丈夫なのか。生長スピードはどのくらいが適切なのか。明確な指標が分かっていませんでした。

けれど、計画通りに作業を進めていけば、きっと美味しいいちごになると信じて、コツコツと作業を続けていきました。

ある日の個人面談

全ては順調でした。ですが、順調と思うことこそが過ちだったのかもしれません。

定植後、少し落ち着いたということで、師匠と個人面談をする機会が訪れました。

研修生に対してのコミュニケーションの一環だろう。そう予想して、面談に臨みました。

最初は予想通りでした。研修の様子や研修の中での悩み、今後シーズンが始まる上で心配なことを尋ねられ、僕は今のところ問題ないというような回答をしました。

しかし、師匠は不満そうに首を傾げました。

「君はなぜ質問してこない?」

いちごについて、ハウスについて、環境制御技術について、分からないことがたくさんあるはずではないか。

最もな指摘でした。

しかし、師匠は非常に多忙な人間でした。農作業だけをやっているのではなく、都度来る研修の相談や外部企業への対応、他の研修施設や圃場へのコンサルタントなど、様々な業務を行っています。

そんな師匠を見ていて、個人的な都合で手を煩わせてしまうのは忍びないという思いがありした。

ですから、先輩に話を聞いたり、書籍で答えを探すなどして、自己で解決した方が良いだろうと思っていたのです。

「君は私に学びに来ているのでないか?1年で独立するつもりなんだろう?それでは貪欲さが足りない」

師匠は僕の意見を軽く一蹴しました。

「遠慮なんかいらない。本当に本気な人間は遠慮なんかしないよ

この言葉は僕の心に深く突き刺さりました。

「私は残り少ない人生を懸けて、農林水産大臣賞を獲れるくらいのいちご農家を本気で育てたいと思っている。本気じゃない人間を相手にしている時間はない。もっと質問してきなさい」

変わる意識

両頬に強めの一発をお見舞いされたような気分でした。ですが、不思議と清々しい気持ちでもありました。

僕は未だ雇われ根性が抜けていなかったのだと思います。

独立すれば全ての責任とリスクと負わねばなりません。誰かがやってくれるだろう、何とかなるだろう、分からなくてもいいやで済まされることは何一つありません。

それからは、意識のギアを一段階あげました。

来年、自分一人で農場を運営することを想定して、全ての作業に臨みました。少しでも不明点や疑問点があれば即座にメモに書き留め、師匠にまとめて質問しました。

と同時に家に帰ると、それまで以上に書物に向き合いました。いちごだけでなく、農業に関する本を片っ端から読んでいき、経験則だけはない、科学的な知識を得ることに執心しました。

圃場では時に、師匠に叱責を受けながらも、しゃかりきに手を動かしました。

これらを努力と呼称するのならば、努力とは全く地味であると言わざるを得ません。

やがて圃場に白くて小さな花が咲き、ブサカワなマルハナバチがぶんぶん飛び回っても、僕は遮二無二、上記の八行に研修期間の大半を費やしました。

そして、初収穫

気付けば、暦は初冬に入っていました。その日は初めて、作業台の上にオレンジのトレイが積み重なりました。

「今シーズンの初収穫を行います」

石鹸で手を洗い、ゴム手袋を付け、僕らは一つずつトレイを持って圃場に向かいました。

そして、教えられるがままに手首を捻って、一粒もぎ取りました。

「それじゃあ、はい。食べてみて」

ゆっくりと甘さと酸味が口の中で溶けていきます。

ふと現実に引き戻されたような気がしました。
ただしその現実は時間からも空間からも隔絶された一人だけの現実せかいでした。

その場所で、胸にほんの一瞬だけ、泡沫のような充足感が湧きました。これまでの努力だとか経験だとか、大変だったこととかは全てどうでもいいように感じました。

僕は、こういう刹那のためにこれからの人生の全ての時間を費したい。そんなことを漫然と思いました。

「まだ完全に乗り切ってないな。これからもっと甘くなるぞ」

師匠はそう言ってそそくさと圃場を後にしました。

僕にとっては、今の道を走り続けていいと思えるには十分でした。

こうして、ようやくお客様にいちごを届ける準備ができたのです。

「新しい」に包まれた日々は続いていきます。
冬と春を越えた先にある風景を目指して。

次回 ⇒ 「#11 過ぎ去る日々に祝福を<研修総括編>」




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