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障害者に求められる「病人らしさ」という社会の残酷さ

 「あなたは困っているような障害者に見えない。助けてもらいやすくするために、もう少し障害者らしく健気に振る舞ったら良いのでは?」
 これは過去に私自身が言われて、絶句した言葉の一つです。
…マジョリティのイメージに合致した障害者だけが助けを得られる条件付きの合理的配慮…「助けたくなるような障害者として振る舞わなければ助けてあげない」社会から排除されているような、非常に残念な気持ちになります。

【前編】「可愛がられる障害者だけが合理的配慮の対象?共感の落とし穴とは

 上記のブログを読み、自分がかつてうつ状態で苦しんでいる時に、身近な人から「全然具合悪そうに見えないし、もっと病人らしくしたら?」と言われたことを思い出しました。
 おそらく、そこには嫌悪の感情があり「あなたに配慮する覚えはない」というメッセージだったのでしょう。

 …この「共感」には落とし穴があるように思います。
「共感」は人と人とを繋げ、連帯感を生み出すポジティブな面もあります。誰かと仲良くなる時、少なからず相手に対し共感を覚えているものですし、ビジネスにおいても、例えば、マーケティングの手法として消費者から商品やサービスの支持を得るために、共感の惹起は重要な要素です。

しかし、私は1人の障害者として暮らす中で、時にこの「共感」における負の部分を感じずにはいられないのです。
「相手に共感を覚えているかどうか」は、現状、社会的マイノリティに対し合理的配慮を提供する際の、選別基準の1つになってしまっているように思います。選別は時に、人と人とを分断する要因として働きます。

「共感を覚えている相手だけを助ける社会」は、誰もが生きやすい社会なのでしょうか?誰かが困っている時に、共感の有無に関わらず、誰もが一定の支援を受けられる社会の方が生きやすくはないでしょうか?

【前編】「可愛がられる障害者」だけが合理的配慮の対象?共感の落とし穴とは

 「共感」、ASDを語る上でこの“共感”という言葉を欠かすわけにはいきません。
 DSM-5でも、複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応のおける持続的な欠陥がありと記されています。

 共感とは人と人を繋げ連帯感を生み出すポジティブな側面がありますが、ASD者の場合、共感に対して持続的な欠陥があることが取り沙汰されています。
 共感が難しい、してもらえない当事者は合理的配慮を受けることが困難になり、支援が乏しい状況になることが危惧されます。

 ただ、人間は根本的に「好き、嫌い」の感情が行動を左右する強い原動力になることは確かでしょう。「好き、嫌い」の影響を緩和し、支援を得られる仕組み作りは欠かせません。


 私には生まれつき障害のある知人がいます。その知人はいつも周囲の顔色をうかがい、相手からどう思われるのかを常に気にしているように見えました。意見を尋ねてもうまく伝えられない様子でした。

ある時、その知人になぜそのように振る舞うのか、思い切って尋ねてみました。その答えを聞き、私はとてもショックを受けました。

物心がついた頃からほぼ毎日、親や学校の先生から「あなたは周囲の人に助けてもらわなければ生きていけない。だから、助けてもらいやすい人になりなさい。可愛がってもらえるように、常に笑顔で感じよく振る舞いなさい。何かしていただいたら、全力で感謝の気持ちを伝えなさい」と教えられたのだそうです。

もちろん親や学校の先生に悪意はないと思います。誰しも、自分の子どもや教え子に対し、嫌われるように振る舞いなさいとは言いません。

ただ、私にはこの「かわいがられる障害者になりなさい」という言葉は、まるで「聞き分けの良い障害者」を作り上げるような、洗脳の言葉のように感じられました。毎日毎日「かわいがられる障害者になりなさい」と言われ続けたら、いったいどんな大人になるのでしょうか?

 自己肯定感は育たず、自分の意見を言えず、自分の困りごとやニーズも相手にうまく伝えられない、そうした大人になってしまうのではないでしょうか?この知人の話を聞き、私は悲しい気持ちになりました。

【後編】「可愛がられる障害者」だけが合理的配慮の対象?共感の落とし穴とは

 上記を読んで社会の残酷さを痛感します。「そのままのあなたで生きることは許されない」というメッセージを感じます。

 社会と関わる時は、ずっと仮面を被って自分を偽り続けて生きることは、まさに「生きづらさ」の象徴と言っても過言ではないでしょう。
 自分の場合は、そのような状況に陥ったら「自分はなんで生きているんだろう?」という苦悩に苛まれるでしょう。

 「聞き分けのいい障害者」を世間から押し付けられるなら、自分はこの社会に努力して存在したいとは思わないです。おそらく世間と距離を取り、社会との関わりを最小限の抑える方策を選びそうです。


 今まで出会った障害がある人の中には、マジョリティに対し崇拝に近い感情を持つ人も多く見かけました。そうした人は個人モデルで障害を考え、社会に適合できないのは「障害を持つ」自分自身が悪いのだと罪悪感を持ち続けている人が多いように思います。そして、自分にできないことができているマジョリティは無条件で素晴らしいのだと思い込んでしまっていました。

【後編】「可愛がられる障害者」だけが合理的配慮の対象?共感の落とし穴とは

 

自分は過去記事でこう書いていました。

 自分が障害者だと自覚するようになってからは、いつしか定型発達者に対して、「変化が早く困難な状況でも社会適応できる能力の高い人々」と捉え、かつての友人たちに対しても「生きる世界が違う雲の上のような存在な人々」と思うようになっていました。
 いつの間にか定型発達者としてカテゴライズされているかつての仲間たちを自ら分断し理想化、神格化させていました。
 その判断をしたのは周囲と比べてできないと感じる自分に対して、それを認め上手に諦めるための納得感を得たかったのだと思います。

生きる苦しみと発達障害

 過去記事を振り返って、自分はまさに個人モデルで障害を考え、社会に適合できないのは「障害を持つ」自分自身が悪いのだと罪悪感を持ち続けていると思いました。
 そこに至る経緯は、社会から浴びせられた「環境のせいにするな」「努力不足」「自己責任」という言葉をまともに吸収してしまったことも大きな要因としてありそうです。

 自身に内在化されてしまった「そのままのあなたで生きることは許されない」といった社会から浴びせられた呪いのメッセージを癒しながら、「ダイバーシティ&インクルージョン」の文脈を発信を通して作り上げる必要がありそうです。


【参考HP】


もし、サポートしたいと思っても、そのお金はここではない他の何かに使ってください。僕の方はサポートがなくともそれなりに生活できておりますので。