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バルコの航海日誌 Ⅱ◆銀沙の薔薇《8》

Ⅱ◆銀沙ぎんさの薔薇

《8.目覚め》


それから数日が経った日の夕暮れ。
夕番のバルコが甲板をデッキで磨いていると、わずかな水音がした。ちょうど一番星が水平線に瞬きはじめる頃だ。

振り向くと、少女がたらいから身を起こしかけていた。水の滴る銀髪を後ろに流し天をふり仰ぐかたちだ。

デッキブラシの手を止めて見守るダッカの前で、少女はゆっくりと眼を開いた。
「気がついた?」
少女は顔をこちらに向けた。

その瞳は菫色だ。だが、少女の視線はバルコを捉えることなく宙をさまよう。もしやこの子は目が見えないのだろうか。バルコがいぶかしがりかけたとき、バルコの顔の上で視線が止まった。

その瞬間、菫色の瞳の中央に引き絞るように白い光が結ばれたかと思うと、少女は後ろに飛びすさった。たらいはひっくり返り、すさまじい音を立てる。水は全てこぼれてしまった。尻餅をついたままじりじりと船壁まであとずさった少女は敵意の表情をあらわにしている。

少女の掌の傷はまだ癒えていないはずだ。後ろ手についた傷が痛んだのだろう、鋭く顔をゆがめる。

「びっくりさせてごめんよ。大丈夫、なにもしないよ」
バルコは声を掛けた。それから少女を刺激しないように、たらいをそっと元に戻すと、ゆっくりと場を去った。

それからしばらく経って、重いものをひきずるような低い音が甲板に響いた。積み荷越しに、音はたらいのほうに近づいてくる。
ややあって積み荷の陰からのぞいたのはバルコの真っ赤な顔だ。汗をかきかき、抱えきれないほどの大樽を両手で引きずっている。

少女は船べりの物陰に隠れて膝を抱えていたが、バルコの姿を認めてさらに固く身をすくませた。
「大丈夫、大丈夫…」
バルコは低く囁き、少女と目を合わせないよう神経を遣いつつたらいに近づく。苦労しながら樽の栓を抜くと、ゆっくりと樽を傾けた。樽の口から水が迸り、たらいに勢いよく音を立てる。

「新しい水、内緒だよ。船じゃ真水は貴重なんだ」
バルコは一息つくと、シャツで額の汗をぬぐい、また樽を傾けた。たらいに満たされた水が星を映す。いつしか海は、宵から夜へと移り変わっていた。藍色の天鵞布のようになめらかな夜空にはいくつも星が瞬いている。
「さあ、できた。お入り」
バルコは微笑みかけた。だが少女は無表情のまま膝を抱え、警戒の色は変わらない。
「まあ、そうだよね。そんなすぐは安心できないか。俺はあっちにいるから、ごゆっくり」

バルコが離れるのを見計らうと、少女はそろそろとたらいに這いより、なみなみと満たされた水に身を浸した。ほっと息を吐いて天を仰いだ白い顔に、砂漠を離れてから初めて、わずかな安堵の色が浮かんだ。

それから少女はバルコには心を許すようになったのか、近くに居る時にはなごやかな表情を見せるようになった。バルコが甲板で作業をしていると眼で追っている時もある。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 ☆この話
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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