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バルコの航海日誌 Ⅱ◆銀沙の薔薇《5》

Ⅱ◆銀沙ぎんさの薔薇

《5.銀の来歴》


その時はほんの赤ん坊だったリケがいまアムディンの前で頬を濡らしている。涙で顔をくしゃくしゃにしたリケをアムディンは抱きしめた。
ギンは俺たちを見捨てないし、俺たちも絶対銀を取り返す。約束する」
リケの小さな額にアムディンは自分の額を軽く合わせた。リケに笑顔が戻った。
「うん、アムディン。銀は帰ってくるんだ。わかった」

仲間のもとへ走ってゆくリケの背中を見送りながら、アムディンは数年前の「星の夜」を想い出していた。長老の死の床に呼ばれた時のことだ。

その夜、アムディンは月に蒼く照らされた夜道をひとり長老のもとに向かっていた。通常、長老の天幕は一族の集落の中央に設けられているが、死期を悟った長老は、霊性を高めるため、集落からやや離れた岩場の間に自らの天幕を移させていたのだ。

天幕にたどり着いたアムディンは、入り口の垂れ幕越しに中に声を掛けたが返事はない。しばらく待っていたが、意を決して垂れ幕をくぐった。室内には火の気はなく、外から入ってきたアムディンには何も見えない。

静寂のなか立ちすくんだアムディンだったが、冷たく張りつめた空気の中、針葉樹の葉のような清涼感と鋭さをもつ香りが流れてきた。香が焚かれているようだ。一族は、儀式の際などに用途に応じてさまざまな香を焚くが、この香はアムディンが初めて嗅ぐものだった。年若く、物慣れぬ緊張のなかにあったアムディンの心に、その香が落ち着きを与えた。

眼が慣れてくると、天幕の中央にほの白いものが浮かび上がってきた。白狼の毛皮が敷かれている。そのうえに長老が身を横たえていた。 部屋の隅にはひとりの少女が目を伏せて控えていた。床まで流れ落ちる長い髪がほのかに光を集めている。銀だ。

長老が口を開いた。
「アムディンか」
「はい」
「そこに座れ」
指示にしたがい、アムディンは毛皮の傍らに座を占めた。
「あの星が見えるか」
仰臥したまま長老が人差し指をもたげて天を指した。天幕の頂上には天窓が穿たれている。ちょうど頭上にあたる位置にひときわ輝きの強い星が瞬いているのが見えた。
「狼星だ。あの星が空を守る。わしも死んだらあそこにいく」
古木のように枯れた顔の中で、長老の瞳が一瞬強く光った。
「そして地上にあって、我ら一族を守るのが銀だ」

アムディンは隅に控える銀のようすを伺ったが、彼女は目を伏せたまま微動だにしない。銀は少女の姿をしているが、夜張りの年齢は見た目ではわからない。アムディンがものごころついたころから銀は今の姿だったが、その時点ですでに一族の守りとして長く時を過ごしていると聞いた。

「いいか、アムディン。これから話すのは一族に伝わる一番大事な掟だ」
長老は言葉を継いだ。
「よく聞け。これからはおまえと銀で一族を守っていくこととなる。銀を祀る者として、おまえは銀に一番近いところに居るだろう。だが長となってからはいっさい銀に触れてはならぬ」

アムディンはけげんな顔をした。銀とは幼い頃からともに過ごしている。赤子が生まれれば銀はその肌に直接触れて刺青を施すし、一族の者が怪我をすれば、銀は天幕から掌をさしのべて傷を癒す。夜張りの務めとして夜通し裸足で岩山に座した銀の足を、女たちは毎朝汲みたての清水で洗うが、その際にも女たちは銀の肌に触れる。しかし長だけは銀に近づけないというのだ。

「承知いたしました。しかしなにゆえ長だけが…」
「その昔、この辺りは海だったという話は聞いたことがあるな」
アムディンは古い言い伝えを思い出した。一族のこどもたちはみな、子守唄がわりに聞かされて育つ物語だ。

いにしえの時代、世界は混沌のなかにあったという。やがて、薄暗がりの空に太陽と月が生じ、一日は昼と夜に別れた。大地が隆起して、地表もまた陸と海に分離した。岩は砕けて砂漠になり、地中深く浸み込んだ海は、砂丘に銀沙の薔薇を残しつつ、長い年月を掛けてオアシスとなったという。

「太陽に灼かれて生きる陽の民として我らは命を受けた。いっぽうで夜とオアシスを司る者も生まれた。夜を徹して一族を守る夜の番人。分かるか。それがつまり銀だ」
アムディンはうなづいた。
「昼と夜が表裏一体であるように、一族と夜張りも切り離せない。砂漠がオアシスを抱き、オアシスが我が一族の命をつなぐ。我々は、お互いが表裏一体であることで生きていけるのだ。

わが一族とは太陽であり、砂漠である。
夜張りとは月であり、オアシスである。

アムディン、これからおまえは陽の民の長となる。そして銀は夜そのものとして生きる。運命によって分かたれたおまえたちが、再び合一すると、いにしえのことわりが崩れる。時が遡り、すべては混沌に還ってしまうのだ。太古の海が甦り、我らの地であるこの砂漠にも海が押し寄せる。すべては波に呑まれて滅びてしまう。これが、決して銀に触れてはならぬという掟のいわれだ」
それまで目をふせていた銀が顔を上げた。
輝く髪が肩口からさらさらとこぼれる。瞳は穏やかだ。明け方の空の菫色をしていた。

長老は狼星に掌を向け、しばらく光を集めたあと、アムディンの額に手をかざした。これにより継嗣はなされた。

夜の静謐の中、銀は最後まで口を開くことはなかった。しかし不思議な安らぎがその場には宿っていた。この方がいれば、きっと大丈夫。アムディンはそう確信を得た。天幕を出ると大きな星が銀色の尾を曳いて流れた。

それからというものアムディンはつねに銀に仕え、銀もまた一族の夜を守り続けた。

「それが……」
アムディンは、山犬に襲われた白昼のことを苦しく思い返していた。
「アムディン、どうした」
呼び掛けられてアムディンは我に返った。

声の主は幼馴染みのタレスだ。
幼少の頃から兄弟のように睦まじく育ち、いまでは一番の右腕として信頼している相手である。アムディンが白狼の毛皮をまとうのに対し、タレスがまとうのは黒狼の毛皮だ。どちらの毛皮もその立場をあきらかにしているが、アムディンが長となった今でもこの男は昔と変わらずに接してくれるのがありがたい。タレスの焦茶色の瞳が温かくこちらを見ている。

「そう暗い顔をするな。こんな時こそ長が元気でいてくれないと、困るのは一族の我らだぞ。元気を出せ」
タレスはアムディンの背中を力強く叩いた。アムディンは顔を上げた。
「そうだな、しっかりしなくては」

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae ☆この話
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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