バルコの航海日誌 Ⅰ◆真珠の島《4》

Ⅰ◆真珠の島《4》


妃の執着は日に日に度を増していった。あの夏の午後、謁見の広間で若者の瞳に揺れていた光は一滴の雫となって王妃の胸にしたたり落ちた。その波紋は、いまや抑えがたい大波となって王妃の胸中に荒れ狂っていた。

王妃の命に従い、国中から真珠という真珠が集められたが、そのどれにも王妃は満足しなかった。集めれば集めるほど、もっと、もっと、とけつくような想いは増すばかりだった。

「あたらしい真珠はないか」豪奢な長椅子に身を投げ出し、いらいらと声を高めた王妃に、お付きの者がひざまづき、絹張の小箱を差し出した。
「今朝がた届きましてございます。こちらが西の浜では最高の真珠ということにございます」
箱の中には大粒の真珠が収まっていた。親指の爪ほどもある大きさといい、わずかに桃色を帯びた照りといい、申し分ない逸品だ。だが王妃はちらりと目をくれたきり、けだるげに押しやった。

わらわが欲しいのはこのようなつまらぬものではない。あの者が採ってきたのは、もっと大きく、輝きも深く、いったん目にした者は忘れられないような真珠じゃ。それでなければどれも海の泡と同じ。妾は、あの者が真珠を差し出した時の瞳を忘れられぬ。これまでみたこともないような瑞々しい光が両眼に満ちておった。海の輝きを集めたような光じゃ。妾はこれまで望んで得られぬものは何ひとつなかった。だがなぜ妾がまことに望むものに限ってこの手に入らぬのじゃ」

妃が真に望んでいるものが真珠ではないことは、いまや誰の眼にもあきらかだった。

***

その日の夜が更けた。天空高くに三日月が引っかかっている。ほそい三日月の姿は、星のきらめきが象嵌されたラピスラズリの円天蓋に、幻獣がするどい爪痕を残したかのようにも見える。

月が見下ろす宮殿の中庭には妃の姿があった。妃は、長くいた衣の裾が夜露に濡れることも厭わず花園に歩を進めてゆく。
夜の花園には白い花々が咲き乱れている。三日月から新月の夜にかけて花を開く月馨花だ。闇が深まるほどに高まる花の香りはどこまでも甘美だが、その蜜はわずかに毒を持つという。

王妃は花を傾けて、花弁に溜まっていた夜露を唇に受ける。濡れた唇から雫がこぼれた。その唇をゆっくり開き、妃は声を発した。
「おるか」
「は、こちらに」
くさむらを揺らして花陰から現れたのは、黒い絹で口元を覆った細身の男だった。女のように華奢な影がゆらりと揺れ、妃の前に慇懃いんぎんに膝をつく。

王妃は頷いた
「よいか。ある男を迎えに行って欲しいのじゃ。生かして連れてさえ来れば、やり方は問わぬ」
「承知いたしました。してその男とは」
王妃は膝を曲げ耳打ちをした。王妃に耳を預けた男の目が動いた。
「承知いたしました」
「褒美は戻り次第授ける。王には内密にな」
「心得ております」
立ち上がった男は花の陰に消えた。

ふと、雲の影がさして月が隠れた。

それから半月が経った。王妃の部屋の紗の窓掛けからは下弦の月が覗いている。
長椅子に身をもたせ掛けた王妃の前には、黒絹で口元を隠した男がひざまづいていた。

「それでいかがした。の者を倶してはおらぬようだが」
黒絹からのぞく男の額は蒼白である。
「それが、」
「それがいかがした」
男は言葉を継がない。口ごもる男にいらいらと王妃は促した。
「いかがしたというのじゃ」
男は観念したように口を開いた。
「宮殿には参られぬと、」

妃の顔色が変わった
「何と申した」
男の額には冷たい汗が滲んでいる。吐く息が黒絹を湿らせた。
「それが、宮殿にお仕えすることは致しかねるとの返事でございました。申し開きもござりませぬ」
男の声はわなないている。

「なぜに」
「継ぐべき長の役割もあり、村を捨てては出てこれぬと。すでに結婚の約束を交わした娘もおり、春には婚礼を控えているとのことでございました。夜を待って内密に男を連れ出そうといたしましたが、長老の家の者が村を守っており、盗み出すこともかないませんでした」

「それで己れは、のこのこと退き下がってきたのか」
王妃の眼が裂けるほどに見開かれた。
「もうよい、誰か。この者を連れて行け。妾の命に空手で戻ったのじゃ。応分の罰を与えよ」
鋭く叫ぶと男の背後に掛かっていたとばりが左右に分かれ、奥から武具をまとった兵が現れた。振りかえった男の顔面は恐怖で強張った。兵の掲げた槍が月に閃き、氷よりも冷たく光った。

「ひっ」
首に穂先を当てられ、男が吸い込んだ息が笛のような音を立てる。男は兵に引っ立てられて帳の奥に消えた。乱れた足音が石の廊下の奥に遠ざかっていく。必死に許しを請う声が細い悲鳴に変わり、長く尾を引いたかと思うとやがてそれも消えた。

妃の部屋は再び静寂に充たされた。壁に掲げられた大鏡に燈火が映っている。妃は身にまとっている薄衣を肩から落とした。裸の胸には巨大な真珠のくび飾りが静かな光を湛えていた。半身を欠いた今宵の月光を吸い込んだような蒼白い光だ。

鏡の中の裸身に燈火が照り映える。冷え切った白い肌の上を炎の舌がちろちろと蛇のように這う。やがて、鏡の中の己の姿を見つめる王妃の瞳にも暗い焔が宿った。
「よい」
王妃の唇がひとりでに動いた。
「妾に逆らうとどういうことになるか、存分に思い知らせてやらねばならぬ」

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442 ☆この話
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

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