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バルコの航海日誌 Ⅰ◆真珠の島《5》

Ⅰ◆真珠の島《5》


一夜明け、その日も宵を迎えた。王妃は夕べを待ち湯浴みを済ませると、侍女に命じ、月下花の香油を身体じゅうに塗りこめさせた。唇にはいつもより念入りに紅を引く。

「今宵は気分がよい。王の宴に参るので、支度をせよ」
「さようでございますか。それはようござりました」

人の好い侍女は驚きと喜びを満面にして答えた。気分がすぐれないことを口実にして、妃は久しい間、王と同席することを避けてきていたのだ。

「久方ぶりにお妃様がおでましとあらば、宴席はさぞ華やぎましょう。このわたくしめも嬉しゅうございます。お飾り物は何にいたしますか」

「耳飾りは紅玉のものにする」
「これはお珍しい。真珠ではなくてよいのでございますか」
「よい。今宵は特別じゃ」

侍女は、宝石箱からいそいそと紅玉の耳飾りを取り出してきた。不機嫌の続く妃の機嫌を取ろうと試みた王から贈られたものだったが、それきり妃の手に取られることもなく宝石箱の隅に押し込まれていたのだったが。

王妃に耳飾りをつけると、侍女は息をついた。
「よくお似合いでございます。さすがは王様のお見立て。お美しいお妃様のお姿に、王様はさぞお喜びのことかと存じます」
「さればじゃ」
王妃は鏡越しの己の姿に流し目をくれた。湯上りの肌に、紅玉の色が映えて我ながら艶めかしい。
「これでよい」
王妃は笑みを漏らした。


飾り窓に月が浮かび、空が紫色に染まる頃、王は侍女を相手に盃を手にしていた。盃を重ねても王の顔色は優れない。山海の珍味を盛り、美女を侍らせても、肝心の妃はこのところ全く顔を見せないのだ。娘ほど年の離れた美貌の妃に王は甘い。気分が優れぬと言われれば、無理を強いることもできない。だが、妃のいない席では、水晶の盃に注がれる美酒も水のように味気ない。

そこに足音を乱れさせ、知らせの者が現れた。
「王様。お妃様が参られました」
「なんと、妃が。よい、通せ」

その声も消えぬうちに、入り口の紗が開いて妃が姿を現した。
肌が透けるほどの薄衣をまとった妃は、耳に紅玉の飾りを提げている。耳飾りをみとめた王の顔は歓びに輝いた。

「こちらにまいれ。いかがした」
「王様。今宵は気分が良うございますゆえ、お目にかかりたく参上いたしました」
王妃は身をくねらせて王の傍らに座を占めた。
湯上りの火照った肌からは月馨花の香りがむせ返るほどに立ちのぼる。

「気分が優れぬことが続きましたゆえ、永らく参上もかなわず申し訳ございませんでした」
「よい、よい。顔が見られればそれでよいのじゃ。して気分が優れぬこととは。いかがした」
「そのことでございます。実は、妾の気分を曇らせておりましたのは、このことなのでございます」

王妃は胸元からするすると金の鎖をたぐり寄せた。豊かな胸乳むなちの間から引き出された鎖の先には、水を含んでいるがごとく潤いを放つ大珠の真珠が輝いていた。

王は微かに眉をひそめた。せっかくの酔いが醒めるようだった。

「偉大なる我が王よ」
王妃は王に身をもたせ掛け、両の手で包み込むように王の手を取った。王妃の手は柔らかくひんやりとしている。王妃は王の顔に頬を寄せた。月馨花の強い香りが鼻をうつ。王は目が眩みそうになった。

「我が王。これまでわたくしは、海よりも深い王の御恩により、数多の真珠を授けていただきました。しかしながら未だに、王の妻に相応しい真珠は手に入っておりませぬ。我が王の妻である証として、妾は真珠の中の真珠、海の王の真珠が欲しいのでございます。この海で、一番大きくて美しい真珠。激しい波をこえて、深く冷たい海の一番奥底にねむる真珠を。そして、それができるのは、島で最も優れた真珠採りのみと聞きました。よもや否とはおっしゃりますまい。我が王、お願いでございます。妾に真珠をお与えください」

―あの若者が我がものにならぬのであれば、その命を奪ってまでも誰かの手には渡すまい。

島中の真珠採りたちが真珠という真珠を採りつくしたいま、妃の望みにかなう大粒の真珠を得られる場所は涙の谷しか残っていなかった。そしてそこから生きて帰ってきたものはいない。

妃のたくらみに気づかぬ王ではなかった。苦い哀しみのなかで王は考え、答えを出した。これ以上、あの者が妃の胸に座を占めつづけていることには耐えられない。

「よい、妃よ、願いをかなえよう」

命がくだり、再び島へと使者が遣わされた。今度は武装した兵の一団を引き連れてのことだった。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123 ☆この話
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

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