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バルコの航海日誌 Ⅲ◆香料図書館《4》

Ⅲ◆香料図書館

《4.第四の壜》


バルコは椅子に座ったまま、手を伸ばして壜を受けとった。耳の横で壜を軽く振ってみると、乾いた鞘がぶつかり合う微かな音が聞こえた。

ここまでで三つの壜を試している。香辛料を嗅ぐのに、大体の要領はつかんだ。壜の栓を抜けば、人のかたちをとってたちどころに香料たちが現れる。彼らはおおむね無害だ。——なかにはナツメグのように、やや行き過ぎた悪戯をする者もいないわけではないが。

彼らを招きたいときは好みのままに壜を選んで栓を抜けばよいが、しかしそろそろ彼らにお帰り願いたいと思っても、そこはこちらの自由にはならない。壜の栓をしめても彼らは去ろうとはしないのだ。香料たちの退場は、あくまで気まぐれな彼らの気分次第、と。

「で、お次はどんな相手だ」
バルコはあらためて手もとの壜を見つめた。
司書は、この壜なら怖がらなくても大丈夫だと言っていたが、しかし香辛料たちの登場はいつでもバルコの予想を裏切る。

壜を手にしたバルコは小さく息を吸い、多少身構えつつ栓を抜いた。

まだ何も起こらない。バルコは抜いた栓を注意深く椅子の傍らの小卓の上に置くと、顔をゆっくりと壜に寄せた。

壜の口からは、甘く温もりのある香りが立ちのぼった。黒っぽい乾物のような壜の中身からは思いがけないほど甘美な香りだ。心地よい香りに、そのまま深く息を吸い込むと、体のすみずみにまで濃厚な香りが行きわたる。

香りに酔ったようになり、バルコは椅子の背もたれにうっとりと寄りかかった。目を閉じると、甘い雲に包まれているような恍惚感がバルコを浸した。と、いきなり膝の上にぐっと重みを感じた。

驚いて目を開くと、そこには白い寝巻にくるまれた幼児が眠っていた。

唐突に現れた幼児は、ずっと前からそうしていたかのように、バルコのふところにすっぽりとおさまっている。金色の巻き毛に、みるからにすべすべとした白い肌、薔薇色の頬っぺ。ぐっすりと眠っているらしく、規則正しい寝息のこぼれる唇は花びらのように薄く開かれている。突然の出現に、バルコは驚いて立ち上がりそうになったが、幼児が膝から滑り落ちないようにすんでのところでこらえた。
幼児を起こさないようにバルコはこわごわと抱えなおしたが、幼児は目を覚ます気配はなく、安らかな寝息を立てている。巻き毛があごにあたってくすぐったい。先ほどまで漂っていた強烈な甘い香りは影を潜め、そのかわりに、幼子特有のものだろうか、ミルクのようなほのかな甘い薫りがふたりを包んでいる。ほの明るくランプの点る静かな室内に幼児の安らかな寝息だけが聞こえる。

幼児は、眠りながらも丸々とした腕を伸ばして、バルコの首に抱きついた。幼い子どもの体温は高い。ふところに抱いた幼児の温もりと、甘い薫りに誘われ、バルコもまぶたが重くなってきた。うつらうつらとし始めたバルコは、幼児と一緒に眠り込んでしまった。

***

頬にかすかなこそばゆさを覚えて、バルコは目を覚ました。なんだか長いあいだ眠っていたような気がする。

眼を開いたバルコの視界に映ったのは、しっくいの天井と太い梁だった。バルコは柔らかい毛布にくるまれて寝台に仰向けに寝ていた。

木枠の窓には白い布の壁掛けが下げられ、風が吹くたびに壁掛けから陽の光がこぼれだす。先ほどからバルコの頬をくすぐっていたのはこの陽光だった。室内はおだやかな光に充たされ、天井には光の波が緩やかに揺れている。中庭の池にでも陽が反射しているのだろう。

まどろみから覚めたバルコはまだ心地よい余韻の中にあった。ここはどこかの田舎家だろうか。知らない場所のはずなのに、なぜか懐かしい気がする。
「ここはどこだろう」
今度は声に出して呟いてみた。だが耳に届いたのは赤ん坊がむずかる声だった。
「あれ?」
バルコはもう一度ひとりごちたが、今度はその声は弱々しい泣き声となって響いた。もぞもぞと身体を動かし、体をくるむ毛布から両手を引き抜いていてみた。うっすらと予感していたとおり、目の前に現れたのは赤ん坊の小さな両掌だった。にぎにぎと動かしてみたが幻ではない。

やっぱり、そうか。

しかしバルコは不思議と落ち着いていた。赤ん坊となった現在に至るまでの経緯を思い起こそうとしたが、しかし今ではそのすべてが、遠い夢のように薄れつつあった。
——もう、帰れない。

バルコの頭にはその言葉がよぎったが、しかしバルコには、自分が帰るべきはどこなのかがすでに分からなくなってきていた。かつて自分は船に乗っていて、旅の合間に不思議な図書館を訪れ―、そんなことがあったような気もするが、波に運ばれて、浜から徐々に遠ざかりゆく小壜のように、船での暮らしや仲間たちの記憶は遠ざかっていく。

そのかわり、いま自分がくるまれている毛布の感触や、部屋に差し込む陽射しの温もりなどが目の前の実感として立ち現れてきた。打ち寄せる波が引いたあとの砂浜には、うつくしい貝殻だけが取り残されるように―。

記憶が薄れていくことについての不安はなく、むしろ、バルコは、本来あるべき場所に戻ったような、いつまでもここで安らいでいたいような不思議な感覚に包まれていた。

その時、木の扉が軋み、室内に誰かが入ってきた。その人は穏やかな足取りで寝台に歩み寄ると、白い腕を伸ばし、毛布ごとバルコを抱き上げた。
「おお、よしよし、目が覚めたのね」
抱き上げられたバルコの角度からその人の顔は見えなかったが、どうやらまだ若い女の人のようだ。幼い頃に母を喪ったバルコは母の顔を覚えていないが、きっとこんな人だったのではないだろうかという思いが胸をよぎった。その人のふところからは甘いミルクの香りがした。

その香りを嗅いだとたん、甘酸っぱいような切ないような気持ちが込み上げてきた。胸に込み上げるものを息とともに吐きだすと、それは赤ん坊の泣き声となって室内に響いた。

「おお、いい子、いい子」
その人はぐずりだしたバルコを軽くゆすりあげ、優しく覗き込んだので、今度はまぢかからその人の顔を見ることができた。白い肌には少しだけそばかすが浮き、明るい茶色の瞳がバルコに微笑みかけている。みずみずしい瞳の面には毛布にくるまれた自分の姿が小さく映り込んでいる。バルコの瞳と髪は濃い鳶色のはずだ。だが、女の人の瞳の中でじっとこちらを見返している赤ん坊はエメラルドのようなみどりの瞳と金色の巻き毛をしていた。

誰だ、これは―。

バルコは自分が消えていくようなおそろしさを覚えた。赤ん坊に戻った自分の姿が映るものとばかり思っていたが、そこに映ったのは知らない赤ん坊だった。

混乱したバルコは、胸に迫った不安をどう表せばよいかが分からず、再び泣きだした。
「あらあら、どうしたの。また眠たくなったのね」
女の人はバルコをゆったりと揺すりあげ、子守唄を歌い出した。初めて聞く旋律のはずだが、身体の奥底ではるか昔から知っていたような気もする。子守唄に合わせてやさしく背中を叩かれているうちに、頬を濡らしたままのバルコはふたたび蕩けるような甘いまどろみに落ちていった。

***

「ああ、やはり眠ってしまいましたか」
頭上から声が降ってきて、バルコの睡りは破られた。見回すと、またしてもそこはもとの図書館の椅子の上であり、声の主は司書の少年だった。ふところの幼児はバルコの首にしがみついたまま、まだ眠っている。

「さあ、こっちへおいで、バニラ」
司書は、すやすやと寝息を立てている幼児の腕をバルコの首からそっと外して自分の胸に抱き取った。

金色の睫毛を伏せて眠っている幼児の姿は、夢の中に現れた赤ん坊とそっくりだ。幼児の瞼は閉じられたままだが、自分はこの子の瞳を知っている。目を覚ませば、その瞳は翠色のきらめきを放つだろう。

幼児が抱き取られ、バルコの膝は急に軽くなった。わずかの間に幼児の体温にすっかり馴染んでしまったバルコの身体は、あるべき温もりを奪われた感じすらして心もとない気がする。
「この子はバニラっていうんだね。それにしてもよく眠ってる。可愛いなあ。甘い香りがして、ついついぼくも一緒に眠ってしまったよ」
「バニラはまだまだ昼寝が必要な年頃なんです。それにしてもあなたは無事お目覚めで良かったですね」

「どういう意味?」
「バニラの甘い香りを嗅ぎながら眠ってしまった人は、彼の夢にとりこまれて一生眠りからさめなくなる場合があるのです」
「なんだって」
「この子、バニラはね、もとは熱帯林の大樹に寄生する野生の蘭なんですよ。むせかえるような熱帯の温気の中で、バニラの苗はこれという樹のひと枝に蔓を絡みつかせると、そこから深く深く根を張りめぐらせ、樹から栄養を吸収して育つのです。いったんバニラに取り込まれてしまうと、樹は逃げる術もなくすっぽりと緑の蔓に覆われ尽くしてしまう。
蘭の芽は、大樹の幹に深く根を喰い込ませると、やがてしなやかな蔓に薄緑色の花を咲かせます。それから一年近くかけて我が子たる小さな鞘を実らせます。
蠱惑的な蔓にとりこまれた大樹は、それはそれは甘やかな夢を見るそうです。夢に取り込まれたまま永遠に眠り続けるそうですよ。立ち木のまま、可憐な蘭に命を吸い尽くされていくことにも気づかずに……。
さてそのおそるべき蘭の未熟果こそが、このあどけないバニラなのです」

司書はほっと息を継ぐと、目を閉じてもっともらしく首を振った。

「この子はこんな愛らしい顔をしていますが、自分の甘い香りを嗅いだ人の夢に抜け目なく入り込むのです。
いったん夢に取りこまれてしまうと、本来の夢の主は永遠に目が醒めなくなってしまう。夢の中の夢、その夢の中の夢、さらにまた夢の中の夢…。幾重にも重なった夢の中で偽りの目覚めを迎えるたびに、夢の主は幼い姿に退行していく。
最後は赤ん坊になって、バニラと同化するそうです。おお、痛ましい」

バルコはさきほどまでの夢の中身を思い出していた。泣きたくなるほど切なく甘やかな時間のなかで、バルコは赤ん坊に戻っていた。だが、その赤ん坊はまさしくいま目の前で眠っているバニラの姿をしていた。ということは
——。

「じゃあ、危うく自分の夢を、この子に乗っ取られるところだったということ……」
「ええ、そうです」
こともなげに司書は言い放った。
「見てください。この愛らしい寝顔を。眠っていても蔓の習性は忘れないのですね。ほら、さっきもあんなにしっかりとあなたの首に腕を巻き付けて。いじらしいものですね」

バルコは血の気がひいた。そういうことだったのか。確かにバニラは眠りながらも抱き付いてきたが、それも幼子のあどけない振る舞いと疑わずに微笑ましく思っていた。だがそれも寄生の本能だったとは。バルコは思わず自分の首に手を遣った。うなじのあたりまで探ってみたが、幸いにして首筋に食い込んでいる植物の芽らしきものは指に触れなかった。

「おおげさですね。そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。“物理的に”寄生するのは、植物の姿をしている時だけです。それに、人間なら誰だっていつかは永遠の眠りにつくのですから、ちょっとぐらい前倒しにして、いたいけなバニラに時間を譲ってあげてもいいじゃないですか。案外けちなんだな」

思いもよらない話にバルコは頭を抱えた。
「自分の寿命をどう遣おうがほっといてくれ。少なくとも今はまだ、命が尽きるには早すぎるよ。そもそも、あの壜を試したら眠ったきりになるなんて話は聞いてない。今度の壜こそ安全だって君も言ってたじゃないか」
「いえいえ、安全だとは言っていませんよ。こわくない、と言っただけです。ぐっすりと、心地よく眠れたでしょう」
「そういう問題じゃない。そうだと教えてくれていたらこの壜は選ばなかった」

「おやおや」
司書は首をすくめた。
「ですからそんなこともあろうかと、気を利かせてぼくが起こしてあげたんじゃないですか。幼児というのは時に残酷なものですからね。悪気はないんですよ。仕方ありません」
涼しい顔をしてのたまう司書にバルコはあきれた。

「なるほど、確かにこの子は悪くない。そこは君の言う通り」
「分かっていただけましたか」
「だけどね、」
バルコは息を吸い込んで、
「むしろこの場合、悪気があるのは君だろう。あのまま目が覚めなかったらどうしてくれるつもりだったんだ」
「目が覚めないなんてことはありません。ええ、滅多に…あれ、そういえば以前に二、三人はそんな方も居たかしら。でもまあそんな小さいことはお気になさらず。昔のことです。それに悪気だなんて人聞きのわるい。ぼくはただ、善良な司書として、大切な来館者に本館選りすぐりの蔵書をご紹介して差し上げただけですよ。全くもって純粋な善意です。ねえ、バニラ」
そう言うと司書は腕の中のバニラを覗き込み軽く揺すった。

「善良な司書ねえ。あいにくとそうとは思えないけどね」
バルコは横目でねめつけたが、司書はまったく動じることなく、善人そのものの微笑みを浮かべながらバニラの寝顔を見守っている。

当のバニラといえは天使と見紛うほどに無垢なようすである。この子が怖ろしい寄生者であると見抜く者は誰もいないだろう。夢でも見ているのか、指をしゃぶりながら軽く身をよじった。ミルクのような香りがまた、ふわりと立った。

「おやおや、こうして油を売っていると、こちらまで誘い込まれて眠くなってしまう。ぼくまで眠ってしまったら図書館を管理する人間がいなくなりますからね。ちょっと寝かしつけてきますよ」

司書は慣れた手つきで幼児を抱え直すと、小さく歌を口ずさみながら書架の奥に向かった。
耳覚えのあるその旋律は、夢の中でバルコが聞いた子守唄のものだった。

ややあって、書架の奥から司書が戻ってきた。
「寝かしつけてきました。さあ、これで安心。ぐっすりと眠って、あの子はきっと特級品に仕上がることでしょう。幼いうちはね、特に良質の睡眠が必要なんです。バニラの未熟果は、いったん収穫したあとに幾度も乾燥と発酵を繰り返す必要があります。とにかくよく寝かせて、細やかに面倒をみてあげないといけないので、数多い香料たちの中でも、とにかく手が掛かる子なんですよ。そうしてお世話をしてやることで、ようやく一人前のバニラビーンズとなって、あの、上質なお酒のように甘く芳醇な薫りを放つようになるのです。あなたも壜の香りを嗅がれたでしょう」
バルコは頷いた。確かに、掛け値なく素晴らしい薫りだった。

「まだまだ母親の恋しい年ごろですからね。一人前に育つまでにはああして子守唄も歌ってやらなくてはいけないし。甘い夢で大樹を絡めとるような恐るべき蘭でも、ふところに抱かれて眠るバニラにとってはやさしいお母さんなのです」
「ぼくはバニラに見せられた夢の中であの子守唄を聞いたよ。君は子守唄まで歌えるんだね。蔵書たちに関する君の勉強熱心さには感心するよ」
バルコは皮肉を込めた。
「ええ。《蔵書》のことは誰よりもぼくが良くっています。それに、ぼく自身も《そう》ですから。ぼくも香辛料なんです」

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6 ☆この話
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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