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バルコの航海日誌 Ⅱ◆銀沙の薔薇《10》

Ⅱ◆銀沙ぎんさの薔薇

《10.歌声》

甲板で日を過ごすうちに、オアシスの岩場で負ったアルジェの掌の傷も癒えてきたようだ。傷が痛むのか、握りしめていた左手もこの頃では開くようになっていた。

ある日のこと。いつものとおりそそっかしいダッカが、梯子に頭をぶつけてこぶをこしらえた。こどものように泣き叫ぶダッカをみんなは持て余し気味だ。この船で騒ぎを起こすのはだいたいダッカと決まっている。

「そんなのつばつけときゃすぐ直る。大騒ぎすんな」
「だって、痛えんだよ」
ダッカの顔は涙でびしょびしょだ。
「またおまえか。でかい図体をしてガキみてえだな」

その騒ぎのなか、アルジェがたらいの中からじっとこちらをみつめている。ひっそりとした空気が流れ、少女の視線に気づいたダッカはばつの悪い表情を浮かべた。
「だってよう…」
言いよどむダッカをアルジェはまだ見つめている。それから小さくうなづいた。
「俺か?」
アルジェはまたうなづく。

ダッカがおそるおそるたらいにちかづくと、少女は伸び上がってダッカの額に掌をかざした。ダッカは思わず目をつぶる。まぶたの裏に何か白く光った気がして、ぎゅっと強く目を閉じた。

恐る恐る目を開けたダッカは目をまんまるにして頓狂な声を上げた。
「痛くねえ。すげえ。おまえがやってくれたのか。ありがとうな」
喜びのあまりダッカは少女を抱き上げようとしたが、
「やめろよ、ダッカ。おまえみたいながさつ者じゃアルジェがこわがるだろう」
と仲間に止められて思いとどまった。
ダッカの子どものような喜び方に照れたのか、アルジェはぷいと横をむいてしまったが、頬には少し赤みがさして、まんざらでもないようだった。

その日を境にアルジェと船乗りたちの距離は縮まった。もはや、たらいの傍らに誰が居てもアルジェは敵意を示すことはなくなった。船乗りたちの夜更けの酒盛りを、たらいの縁に肱をついて眺めていることさえあった。

***

言葉を話すことのないアルジェは歌を歌う。その歌は誰も聞いたことのない不思議な旋律とゆったりとしたリズムを伴っていた。

明け方の月や名残りの星を仰いでアルジェは歌った。アルジェが歌うようになってから、船旅には不思議とよい風が続くようになった。歌声が響き出すと、毎夜、船乗りたちは手を止めてその調べに耳を傾ける。
バルコもまた、寝付けない夜や夜番の手の空いたとき、月光の降り注ぐマストに寄りかかって聴いた。

夜の微風に銀髪をなびかせてアルジェは歌う。ゆるやかなリズムは、寄せては返す波の響きにどこか似ていた。単調な旋律の繰り返しのようでいて、いつの間にか別の調べに移り変わってゆく。
「きれいな歌だね。聞いていると、なんだかなつかしいような気がする」
菫色の瞳が微笑む。

歌の合間にはアルジェに珍しい貝殻や珊瑚を見せてやることもあった。アルジェが見守るなか、バルコは船べりに海のたからものを並べていく。
砂糖の結晶をまぶしたような白珊瑚は暗い海を背景にちらちらと光る。薄桃色の口を開けた巻き貝は、月の光を湛えて瑞々しく輝いた。
手を伸ばしたアルジェにバルコは巻き貝を渡してやる。アルジェはたらいに貝殻を沈ませ、水を汲み上げてはこぼす。
ふたりの頭上には満月が浮かび、海のおもてを優しく照らしていた。

アルジェと過ごす海はさまざまな姿を見せた。

月にかかった雲の、真珠母色の輝き。小魚が銀色に光りながら夜の海面を跳ねていくこと。星々が帆桁に宿り、船全体が灯りの樹のように見えたこと。月光が海面に真っ直ぐに射し込み、海の底まで見通せた瞬間、バルコとアルジェは小さく息を呑んだ。

船上で暮らしてきたバルコだったが、それまで夜とは、日中から翌朝までをつなぐ単調な時間でしかなかった。それがアルジェが現れてからというもの、一変して夜はいきいきと豊かな時の流れに姿を変えた。 闇ひといろと思っていた夜の海にも、さまざまな彩りがあることを知った。

濃紺の海面は黒曜石の波を刻み、銀の波頭にふちどられている。沖合にぽっかりと生まれた鈍色の小さな雲は、風に乗り海上をすべる。
夜の海に降る雨はやさしい。音もたてず降りしきる銀の針がたえず海面を縫い留める。夜明けと同時に、遠くの海面に淡く掛かった虹の色。
それは、バルコが初めて知った夜の美しさだった。

アルジェは、昼間は滾々こんこんと眠り続け、一番星が水平線に瞬くと同時に目を開く。
甲板に座って星々を読み、船を導く。明け方の空に向かって白い指をすっと指し示すと、それは必ず正しい航路を示していた。
アルジェの指示にさえ従っていれば、暗礁も雷雲も回避して、船の安全は約束されていた。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb ☆この話
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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