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バルコの航海日誌 Ⅱ◆銀沙の薔薇《9》

Ⅱ◆銀沙ぎんさの薔薇

《9.海の時間》

少女は、昼間は水を張ったたらいの中で丸まって眠り、夕暮れの訪れとともに目を覚ます。時折り、少女はたらいに膝をついて伸び上がっては、船べりに肘をついて海を懐かしげに眺めていることがあった。瞳には和らいだ光が浮かんでいる。

「あの子は砂漠の子だろう。海を見るのは初めてのはずだ。なのに、どうしてあんなに懐かしそうにしているんだろう」
バルコはいぶかしがった。
「億年前に生まれた海としての記憶が残っているのじゃろうて」
じいさんはつぶやく。
「このあたりの砂漠はもともと海だったんだろう。マッテオが言ってた」
「そうじゃ。陸地に残った海が、長い時間をかけて砂漠に変わった。砂漠に生きる異族にとって、あの子は海の名残りなんじゃよ」

海に出た少女は、身体のどこか奥深くで、太古の自分を憶いだしていた。未だ砂と水に分かたれず、海としてゆるやかにおおらかに世界に偏在していた自分の姿。
夜張りにとって海とは、遠いかなたに忘れ去っていた幼い頃の時間そのものである。波のゆらぎに身をまかせて、少女は無心の安らぎのなかにいた。それは夜張りとして感情の閉された生のなかで、ただひとときの許された時間でもあった。
潮風に銀髪を遊ばせる少女の菫色の瞳には海の色が映り、淡い水色の光を帯びて一層うるんで見えるのだった。

あの日甲板で目醒めてからも、少女が感情をあらわすことはほとんどなかった。だが、ときに少女は星を見上げながらひとり涙をこぼすこともあった。そんな夜は、海面をさらさらと洗うような通り雨がひととき船を訪れる。翌朝はきまって明け方に虹が出た。船員たちは、昨夜の雨は人魚の涙だと語り合う。虹のあとは穏やかな凪となった。

***

夜の海には静かな波音が響いていた。微風が海面を渡っていく。少女はたらいにかけた両腕に小さなあごを載せ、月光に照らされる雲をぼんやり眺めている。

当直のバルコも仕事が一区切りし、膝を抱えてマストに寄りかかっていた。たたまれた帆が結び付けられている帆桁の隙間に、ちらちらと星がまたたく。波の動きにつれ、ギイ、ギイと船のきしむ音が聞こえる。

しばらくバルコは星を眺めていたが、ふと思いついて立ち上がった。船倉から戻ってきたバルコの右手は何かを載せているようでふんわりとすぼめられている。
「ねえ、ごらんよ」
バルコに呼びかけられた少女はけだるげに目を上げた。バルコはすぼめられた右手を差し出す。そっとひらかれた掌には小さく輝くものが載っていた。銀沙の薔薇だ。少女と出会った日に砂の民から手に入れたものである。貴重品ではあるが、これぐらいの欠片かけらなら咎められはしない。

自らの髪と同じ銀の輝きを持つ鉱物の一輪を目にして、少女は微かな驚きをみせた。
「君のふるさとのものなんだろう。手を出してごらんよ」
少女は、たらいに乗せていた腕をほどき、そろそろと両手を出した。小さな掌に薔薇を乗せてやると、少女は顔を上げた。
「気に入ったかい」
少女はこくりとうなずき、柔らかい光が白いほほをゆらめき流れた。それは、これまでほとんど表情を変えることなかった少女が初めて浮かべた微笑みだった。

「そうだ、まだ名前を言ってなかったね。俺は、バルコ」
バルコは親指で自分の胸を指した。少女の瞳がバルコの唇の動きを追う。少女は声は出さなかったが、微かに開いた唇が、バルコ、と音のかたちをなぞった。
「呼んでくれたの。ありがとう」
バルコは顔をほころばせた。
「俺も君の名前を知らないんだ。なんて呼んだらいいかな」

仰向いた少女の頬に沿って銀色の髪がさらさらと流れ落ちる。
「そうだ。銀色の髪がきれいだから、アルジェ。俺たちの言葉で“銀”っていう意味だよ。どうかな」
少女はうなずいた。
アルジェ。それが、少女のこの船での呼び名となった。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d ☆この話
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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