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バルコの航海日誌 Ⅲ◆香料図書館《3》

Ⅲ◆香料図書館

《3.第二、第三の壜》


司書はさらりと次の壜を進める。
「もういいや、冒険はこりごりだよ」
「せっかく来館されたのですから、そうおっしゃらずに。まだまだ蔵書にはいろいろな種類がありますから。」

司書は身体をかがめて書架を検分すると、二つの壜を持ってきた。
「こんなのはいかがでしょう。さわやかな香りですよ」

ひとつの壜には灰緑色の葉が幾枚か入っており、もうひとつの壜には淡紅色の小さな粒が透けている。記号めいたラベルの文字はバルコには読めない。
「中身はなんだい。もう悪戯はうんざりだよ」
「口頭で説明するより、試された方が早いと思いますよ。さあ、どうぞ」

司書は壜の栓を抜いた。葉の入った壜からは若葉のようなすがすがしい香りが、粒の壜からは、微かな辛みとともに柑橘類のような香りが立ちのぼる。バルコは息を吸い込んだ。 

***

幾度か深く呼吸し、こころよい香りが胸いっぱいに満たされた。と、同時に、列をなす書架の間の薄闇から大小の二つの人影が近づいてきた。話し声が聞こえる。大人の女性の落ち着いた声と、少女のものらしき高い声だ。少女がわがままを言い、大人がなだめているようだ。

高く幼い声が響く。
「あ、ここ、ナツメグの匂いがするわ。さっきまで来てたのね。あたし、あの子嫌い」
「そうお友達を嫌うものではありませんよ、花椒ホアジャオ
「お友達なんかじゃありゃしないわ。だってほんとに底意地が悪いったら。あの子に関わるとろくなことがないんだもの」

ランプの灯りの下に浮かび上がるように現れた少女は、真っ黒な髪を両耳の上に結い上げ、前髪は眉の上で切りそろえている。仔猫のように軽く切れ上がったまなじりにはほんのりと朱を刷いており、耳朶には赤珊瑚の珠飾りが下がっている。赤い絹地で仕立てられた上衣とズボンは身体にぴったりと沿い、足には黒繻子の小さな靴を履いている。

少女が手を絡め、甘えたように見上げている相手は、すらりと背が高く流れるような金髪が美しい女性だ。白い肌にまとっている衣服は淡緑色の一枚布で仕立てられており、あらわになった腕と古代風のドレープが優雅なコントラストをみせていた。

女性はしとやかな動きでバルコの前に進み出ると、目を伏せて膝を屈めた。
「初めてお目に掛かります、ローリエと申します。この子は花椒と申します。ご挨拶のまえにお見苦しい所をお見せして申し訳ありません。まだまだおさなく、聞き分けがなくて」
清涼感のある声がまろやかに響いた。

「いいえ、問題ありません、」
それに、ナツメグに関する彼女の意見にはぼくも大賛成です、という後半の言葉は呑み込んだ。

花椒と呼ばれた少女はローリエの後ろに隠れて、子どもらしい警戒の色を目に浮かべている。
「ほら、花椒、ご挨拶なさい」
ローリエに促され、ようやく前に出てきた少女は、睫毛の長い眼を伏せ、幼いながらに小さく膝を屈めた
「君はさっきナツメグの名前を出していたね。彼と友達なのかい」

バルコは椅子から降りて軽く屈み、少女に話しかけた。
「違うわ。ただ同じ香料ってだけよ。あんな野蛮な踊り子と一緒にしないで。ナツメグったら、相手構わず色目を遣ったりしていやらしいったら。あんな子と違って私は高貴な出なのよ」
唇を尖らせて横を向く。

ローリエが困ったように微笑んだ。
「花椒とナツメグは、二人ともはるか東方から来た香料なのです。生国も近く、せっかく歳も近いのですから、もっと仲よくしてくれればよいと思うのですが」
あいかわらず花椒はご機嫌斜めで、つん、と顔をそむけている。その白い額にバルコは目を留めた。薄墨が煙るような眉の間に小さな花のかたちが彩られている。

「額の模様はなんだい」
あら、という感じで花椒はこちらを向き直った。
「これは花椒の花。私の花よ。夏のはじまりに翡翠のような淡い緑の花をつけるの。この護符は、高貴な家の出のしるしなのよ」

黒い瞳が得意げに動く。ご機嫌が直ってきたようだ。
「私の生まれは東の国。天高く龍が翔け、高貴な梅の香があまねく邪を祓う国なの」
花椒はそこで胸を張った。
生国しょうごくでは、この私こと花椒は、霊薬として人々に珍重されているのよ。私には魔を退けて富貴をもたらす力があるの」
「東方の霊薬か。君にはすごい力があるんだね」
「まあ、人々にはそう言われているわ。私にとってはたいしたことじゃないんだけど」
得意げな表情を隠しきれない花椒を、ローリエが微笑ましく見守っている。

「だから花椒をふんだんに使えるのは、高貴な身分の人に限られているのよ。貴人が住まう部屋には、部屋の主の富貴を願って、花椒の粒を壁に塗り込む『椒房しょうぼう』というしつらえが施されたりね。花椒の香気がほのかに漂う部屋は特に身分の高い人だけに許される特別なものなのよ。
たとえば、私が山椒房でお護りしていたのはうら若い皇后だった。彼女はまだ本当に若くて、ほんの少女のようだったの」
「今度は皇后のおでましか。だから君は、高貴な身分の出だと言ったんだね」
「おわかりいただけたようなら幸いだわ」
花椒は重々しくうなずくと話を続けた。

「工人たちによって椒房が造られていく間じゅう、どんな方がこの部屋の主になるのかと気を張っていたから、白い梅の花のようにうつくしい皇后が部屋に現れた時には本当に嬉しかったわ。皇后も椒房の香気を喜んでくれた。

私は、これからこんな素敵なお后さまをお護りできるのね、がんばらなくちゃと思った。それから私は皇后が淋しそうなときも、悲しそうなときもずっと一緒にいた。

皇后はいつでも、可愛がっている白猫を抱いて、故郷の想い出を語り掛けていた。皇后が輿入りする前の名は春清といったそうよ」

***

春まだ浅き日のこと。書の手習いを終えた春清は、紫檀の机に寄りかかり、ぼんやりともの想いに耽っていた。そこに、
——ちらり。
窓からひとひらの花びらが漂い込んできた。白い花びらに、春清は、さきほどから部屋にはひとすじの清らかな香りが流れていたことに気づいた。

ようやく梅の花が咲き始めたらしい。梅の花は、固い蕾がほころび初めたときにもっとも高い香りを放つ。

近くには有名な庭園がある。そこの老梅は香りの高さで評判なのだ。まだ風は冷たいが、ほのかな香に誘われて庭園に足を向けることにした。

時刻は正午近いこともあり、通りは賑わっている。多くの人が行き交うなかでも、耳慣れない言葉を話すとつくにの旅びとの物珍しい風俗が春清の眼を楽しませる。

春清の生まれた村は古くからの交易路沿いに位置する。村は小さいながらも、豊かな緑に恵まれ、良い水が湧くことで知られていた。東西を旅する者たちはこの村で宿を取り、良水で淹れた茶で長旅の疲れを癒すことが倣いになっていた。

埃っぽい通りの向こうからやってくる一団は、砂漠を越えてきた商人たちだ。強い陽射しを反射する白い布をまとい、同じ布でできた頭巾を目深に垂れこめている。

大きな身振りで宿の主人と言葉を交わしているのは、西のかたから船で訪れた旅人だ。彼らの目当ては高価な絹地と珍しい香木だ。彼らの国は絹というものを持たないらしく、絹地が放つ光沢と滑らかな肌触りは、女たちの憧れの的だそうだ。

代赭色の衣に身を包み、髪を剃りあげた寡黙な一団は修行者である。彼らは、はるか遠く、つめたい石畳に濃い影を落とす青銅の伽藍のもとを出て、灼熱の道の上をいつ終わるとも知れぬ巡礼を続けていくのだという。

彼らの姿を目で追っているうちに、いつしか春清の想いは見知らぬ国々のもとへさまよっていた。

その時、春清の足もとから、ふいにかぼそい鳴き声がした。
視線を落とすと、半分崩れかけた土塀の下に、白い毛玉のようないきものが震えている。仔猫だった。
「おまえ、こんなところでどうしたの」
そう呼びかけると、仔猫は春清の顔を見上げてさらに鳴き声を立てる。あごが尖り、痩せてしまっているようだ。親とはぐれて長く経つのか、あるいは飼い主の気まぐれで捨てられてしまったのか。
「可哀そうに。こっちへおいで」
春清が手を差し伸べると、仔猫はおとなしく腕の中に納まった。

強く梅が香った。見上げると咲きかけの蕾を付けた一枝が塀の中からこちらへ伸びている。
「ほら、おまえもご覧。佳い香りでしょう」
仔猫にも梅が見えるよう、春清は抱いた腕を差し上げた。

その時、通りの向こうから悲鳴と怒号が上がった。あたりにもうもうと土煙を巻き上げて、大きな黒い塊が突き進んでくる。「危ない、こっちへ」と鋭い声がして、誰かが春清の腕を強く引き、自らの背後にかばった。

春清がよろけると同時に、乗り手を失った暴れ馬が嵐のように駆け抜けていった。
目の前に白い衣服をまとったたくましい背中があった。
「大丈夫でしたか」
かばってくれたのは、西方風の服装を身に付けた青年だった。言葉の抑揚といでたちからすると旅人らしい。
「ありがとうございました。おかげで危ない所を助けていただきました」
「それならよかった」
春清の返事に、青年は軽く頷くと行ってしまった。

青年の助けがあったおかげで、春清は無事だったが、騒ぎに驚いた仔猫は、春清の腕を逃れて近くの塀の上に飛び移ってしまっていた。
「おいで、こわかったね。もう大丈夫よ」
春清は声を掛けたが、おびえきった仔猫は、塀から降りてくることができない。薄桃色の小さな口を開けてしきりに鳴くが、春清の手は塀に届かない。なんとか背伸びをしたり、飛び跳ねてみたりしたが、梅の花びらが散るばかり。

そこにたくましい腕が伸びて、高い塀の上からこともなげに仔猫を抱き取った。先ほどの青年だった。
「驚かせてしまったね。はい、これで大丈夫」
青年は春清に仔猫を手渡して微笑むと、そのまま立ち去った。

——それで春清はその人をすっかり好きになってしまったのね、と花椒は小さくため息をついた。憧れと恍惚がわずかに混じった遠い目をしている。

その夜、部屋に戻った春清はなかなか眠りにつくことができなかった。これまで父と弟以外の異性と親しく接したことのなかった春清の胸はまだ高鳴っていた。

「どちらの国のお方だったのだろう。荷物を持っていたようだし、旅の途中のようにも思えたけれど。もう次の目的地に向かって出発たれてしまったのだろうか。せめてお名前だけでも聞けばよかった」

それから数日後。井戸で水を汲んでいた春清に声を掛ける者があった。
「このあいだの娘さんですね。仔猫は元気にしていますか」
顔を上げると、微笑んでいたのは荒馬から助けてくれた青年だった。心のどこかで期待していた再会に、春清の頬は熱くなった。
「先日はありがとうございました。あれから仔猫はすっかりなついてしまって、家で可愛がっております。あなたさまは…」

聞けば、青年はここからほど近い宿坊に宿をとっているという。1年ほど前に、はるか西の国を発ち、東へ、東へと向かっている途中だそうだ。春清は青年の名を聞いたが、異国の響きはにわかには発音することが難しい。小鳥が囀るように、その名を繰り返す春清のようすに青年は微笑んだ。

それから二人は、どちらともなく水を汲みにくる時間を合わせるようになった。そんなある日、青年は、春清に請われて、それまで続けてきた旅の話を語り始めた。

生まれてからこの齢まで、村から出たことのない春清にとって、青年の話は驚くことばかりだった。青年の話には風が通い、見たことのない空の色があった。

春清をとりわけ惹きつけたのは、「海」の話だった。彼の生国には「海」というものがあるという。そこでは見渡す限りに果てしなく碧い水が広がり、砂で覆われた浜辺には永遠に波が打ち寄せ続ける。春清は一度も海を見たことがない。遠くを見るようなまなざしで語る青年の瞳は澄んだ碧色だった。それは、「海」と同じ色だという。
青年の瞳に、春清は、まだ見ぬ海への想いを重ねた。

またあるとき青年は、生国に古くから伝わるという曲を春清に教えた。
青年は、携えていた弦楽器を弾き、春清は部屋から持ち出した小さな琴を合わせる。穏やかな波が寄せては引くような、やさしい旋律がふたりを包んだ。青年の故郷の浜に寄せる波は、きまぐれに美しい貝を浜辺に打ちあげるという。純白で扇のように広がった二枚貝、内側にほのかな紅色を滲ませている巻貝。青年の楽器には貝を用いた螺鈿が三日月の形に施されている。月の夜に楽器を奏でると、螺鈿は、月光を受けて小さな虹を浮かべた。

山あいにある春清の村では、太陽は稜線の間から昇り、あたりを黄金に染める。だが青年の故郷では、太陽は満々と水を湛えた水平線から昇る。夜明けの一瞬、海面には曙光に輝く光の道ができるという。

その海を春清に見せたい、と青年は言った。長い旅を終えたあと、帰りにはまた必ずこの村に寄るから、それまで待っていてほしいと青年は言った。春清を見つめる真剣な瞳の中に美しい海がある。その碧は、春清の黒い瞳に映り込んだ。

春清は言った。
「あなたの瞳の色をした宝石が私の国にもあります。人々がこよなく尊び、慈しむその宝石の名は翡翠、といいます。貴方は、私の翡翠です。いつか、あなたの故郷の翡翠の海を私にも見せてほしい。かならず、待っています」

二人は約束を交わし、翌朝青年は村を発って行った。春の風が吹き、梅の花を散らせた。青年は何度も振り返っては手を振ったが、やがてその姿も見えなくなった。立ち尽くす春清の視界には、白い花びらがいつまでも舞い続けた。

都から、王の遣いが春清の村にやってきたのはそれから間もないことだった。長らく王の正后だった女が年老いてこの世を去ったので、新たに顔だちの良い娘を探し、次の后とするためだという。村から后が出れば、村は末代まで栄える。遣いの訪れに村は沸き立った。娘たちは競って化粧や装いを凝らし、親たちは娘の美しさや教養の深さを吹聴して回った。

その騒ぎのなかで、春清はひとり静かに過ごしていた。青年が迎えに来るといったこの村から出るつもりはなかったのである。村の娘たちが、王の遣いの目を引こうと、着飾って往来を行ったり来たりしている間も、春清は部屋の中で白猫だけを供にしてひとり静かに過ごしていた。

王の遣いが村に訪れて数日経ったが、これと思える娘は見つからずにいた。多くの娘たちの中には、それなりに身ぎれいな者や愛らしい者はいたが、后の候補としては物足りない。

ある夜遣いは、村いちばんの長者の家に招かれた。宴の席で、父親である長者が手を鳴らすと、長者自慢の双子の姉妹が恭しく酒を捧げ持って現れた。美しく着飾り、しとやかな手つきで酒を注ぐ姉妹は、さすがに村の娘たちのなかでは一番と言ってもよいみめの良さではあったが、しかし遣いを納得させるにはどこか物足りない。
手厚いもてなしを受け、酔った風情を見せながらも遣いの判断は冷静だった。

宴が果て、夜半になって遣いは長者の家を辞した。身内の者に宿まで送らせるという長者の申し出を断って、遣いはひとり帰路についた。王への報告について考えを巡らせかったのである。

成果がなければ、王から叱責を受ける。だが、これといった決めての無い娘を連れて帰れば、やはり叱責は避けられず、その娘も不幸になる。

そう考えると、王のお叱りは受けるであろうが、やはりこの村での成果はあきらめよう。そう心を決めて、重い足取りで宿への道をたどっていると、どこからか美しい琴の音が響いてきた。さざなみのように繰り返す、密やかな音色に誘われるように足を進めると、青い月の光が射しこむ窓のうちに、一人の娘が琴を弾いていた。その淑やかな横顔に、遣いの目は釘付けになった。

こうして春清は后に選ばれたのだった。

遣いの命令は即ち王の言葉とされる。村から離れたくないという春清の願いは許されなかった。春清が逃げ出さないよう、急な出立で、手紙を書くことも許されず、ただ白い仔猫だけを抱いて春清は輿に乗って行った。咲きかけの梅の蕾がもぎ取られるように。

村から都へと、輿が進む道には赤い布が敷き詰められていた。 赤い布は、山を越え、河を渡り、日干し煉瓦の街路の上を進んだ。都の大通りを進んで宮殿に辿りつくと、朱に塗られた大門を過ぎ、内門も過ぎ、石畳が敷き詰められた広大な前庭を越えると、深い庇が影を落とす玉座の前に出て止まった。

龍と鳳凰の彫り込まれた玉座の上で、枯れ木のように老いさらばえた王は、新しい后の訪れを今や遅しと待ちかまえていたが、ようやく現れた春清を一目見るや身を乗り出して、咲き初めた白梅のような姿に目を輝かせた。

ことのほかの王のお悦びにより、遣いの者にはたっぷりと褒美が与えられ、春清の村では宮廷に納めるべき税が三代先まで免じられることとなった。

先の皇后の代から王に仕えている側妃たちの妬みもそのままに、新后の房は宮中で一番眺めの良い楼に置かれた。后を迎えた季節にちなんで壺庭には白梅の銘木が植えられた。

年少い后を迎えた王の寵愛は大変なもので、部屋のしつらえには思いつくかぎりの贅が尽くされた。窓格子には白珊瑚の枝が使われ、寝具にはとろけるような肌触りの繻子がふんだんに用いられている。王と后の富貴を願う旧い習わしに従って、壁には香りの高い粒を選りすぐって取り寄せた花椒が惜しげもなく塗り込まれた。燈火のもとで、花椒の粒は螺鈿の血珊瑚のように艶めき、ほのかな香りは房の空気を清新なものにした。

しかしその豪奢な部屋も、后にとっては窮屈な牢屋に過ぎなかった。窓にはめ込まれた白珊瑚の格子に指をかけて、后はいつでも遠くの景色を見ていた。眼下には、朱瓦の家並が広がり、朝に、夕に陽の光を受けて光った。この向こうには海がある。海の向こうにはあの人のふるさとがある。村では朗らかだった春清も、后となってからはまったく笑わなくなった。

月が満ちた夜、房の完成を待ちわびていた老王が、ぜいぜいと息を弾ませながら、楼への長い階段を昇って后の房を訪れた。

「琴の音を聞かせておくれ」
王は后に琴を所望した。
「后よ。お前が奏でる琴の響きは、月の国で嫦娥が奏でる楽の音にも負けぬと言うではないか。儂のために奏で、そして、ただひとたびでよいから笑顔を見せておくれ。お前が微笑うと、桃の花がほころぶようだと聞いている。常世の楽と春の微笑みに触れて、儂もお前にふさわしい永遠の若さを取り戻したいのだ」 

さっそく后の前に貝細工の施された豪華な琴が持ち出された。しかし権高いこの琴では、あのやさしい音が出ない。村の木で作ったもっと小さく愛らしい素朴な琴でなくては。それに、あの人の琵琶と合わせるのでなくては、寄せては返す波の音は生まれない。

それでもなんとか、后は瑪瑙で出来た爪をはめたが、その指が琴に触れるか触れないかのうちに、琴の弦は音を立てて切れた。
王は悄然と肩を落として階段をくだっていった。

楼の手摺に寄り掛かって、遠くを眺める后の眼はますます潤いを増して、白眼は、幻の海の色を映したかのように蒼く透き通ってきた。

笑わなくなった后のために、老王はなにか贈り物をして后の心を引き立てようと考えた。宝石で埋め尽くした腕環はどうか。 黄金に輝く繭から引き出した絹で織りあげた、蝉の羽根のように透ける薄衣に、北の果ての海から取り寄せた貂の毛皮をあしらった衣ならどうだ。それでも気に入らないというのなら、新しい館を建ててやってもよい。 しかし后に欲しいものはない。夜ごとの夢に見るのは、未だ見たことのない青い海ばかり。

「たったひとつ」后は思いついた。
「青い、あおい翡翠の珠をくださりませ。この猫の頸につけてやりたいのでございます」
后の願いを初めて耳にし、王は小躍りした。王はさっそく家来に命じた。
「翡翠のなかでも、もっとも青い、青の中の青の翡翠を探すのだ」

后の願いはさっそく聞き届けられた。翡翠の珠は、香木でつくられた小箱に入って王のもとに届けられた。

その夜更け、后の部屋には女官の手により伽羅が焚かれた。后の部屋が甘い薫りに満たされたころ、長い階段を上がってくる王の足音が聞こえた。この手で后に宝物を渡そうと、胸を躍らせて王自らがやってきたのだ。

目を輝かせる王の手から、后は小函を受け取った。蓋を開けると、これまで見たことのないような青さが珠の面に揺れていた。目にしたことがないはずなのに、懐かしい色だった。あの人の瞳の色に似ている。后の周囲から全ての景色が消え、自分と青い輝きだけが残った。

「どうだ、后。所望の翡翠だ。これで笑ってくれるであろうか」
后の耳にはもはや誰の声も入ってこなかった。后の耳にはただ、寄せては返す波の音が響いていた。小函を手にした后の目には青が映り、そこに深い哀しみの影が射した。后は最後まで笑うことはなく、またその瞳に王が映ることもなかった。

小箱を手放した王はその場に立ち尽くしていた。后を抱きしめるはずだった王の両腕は行方を失い、持て余されたようにだらりと下げられていた。しばらくのちに、長い階段を下っていく足音が消えていった。

香炉の火も消え、床にたゆたった煙の残り香も薄れた頃、后はようやく我に返った。みずみずしい光を湛える翡翠の珠に白絹のりぼんを通すと、足元に身体をすり寄せてきた仔猫を膝に抱き上げ、その柔らかい頸に巻いてやった。猫を抱き上げた后の唇からかすかな歌が流れ出した。

それから楼への王の訪れは途切れた。それまでは毎朝行われていた宮廷のまつりごとも滞りがちになり、活気が失われた宮中には、割れた酒器が片づけられぬままに転がっていた。何があったかは知らねど王は急激に老け込んだらしいという噂が下々にまで流れた。

時が流れた。いくつかの季節が過ぎ、花が咲き、散った。

そのあいだも后は猫を抱いて歌を口ずさみ続けていた。この国の者が誰も聞いたことのない不思議な旋律は聞く者の耳に染み透り、記憶の底に残った。不思議な旋律を歌い続ける后の姿に、いつしか后は気が触れた、后の歌声は不吉な呪いだという噂が流れ始めた。王の寵愛が后に向けられていたころは、大臣たちはご機嫌伺いと称して足しげく楼を訪れていたが、忌まわしい噂を気味悪がってそれらも潮が引くようにいなくなった。

それからしばらくして、宮廷の前庭には赤い布が広げられた。布は城の門をくぐって都の大路を進んだ。いくつか山を越え、赤い布が港に届いたとき、大きな船が接岸し、屈強な男たちの手でひとつの輿が降ろされた。輿は用意された赤い布の上をしずしずと進み、山を越え都の大路を進み、大門をくぐって宮廷の石畳の上で止まった。

輿のとばりが巻き上げられ、降りてきたのは、ほっそりとした腰と琥珀色の肌を持つ少女だった。 腕と足首には金の飾りが光っている。南方から来た娘らしいと人々は囁いた。

前庭に居並んだ宦官の一人が少女の前に進み出て、腰が折れるほど深く礼をした。宦官たちにかしずかれ、少女が宮中に消えた後には、高楼を見上げながらとりどりの扇で唇を隠し、ひそひそと目くばせしあう側妃たちの姿があった。

それからほどなくして、老いたる王は新しい后候補にご執心だとの噂が宮中に流れた。

もう誰も、高楼に住まう気狂いの后を顧みる者はいなくなった。

「——だけど」

花椒は言葉を継いだ。
「后はもちろん正気だったわ。后が何より恐れていたのは、じぶんの気が違って恋人のことを忘れてしまうことだったから。后が気が触れたという噂は他の妃たちが流したものよ。王の寵愛を妬んだ妃たちが、ひそかに通じている宦官どもに命じて、后の悪いうわさを都じゅうに広げたのよ。后が歌っていたのは、恋人が教えてくれた異国の旋律だった。后は、叶わなかった恋と故郷への想いを歌にのせていたのよ。仔猫にだけ歌って聞かせているつもりだったようだけれど、時が経ってもまだほのかに香りの残る椒房で、この私も一緒に聴いていたのよ」

ときおり窓から舞い込む花びらのほかは、いまでは訪れる者もいなくなった高楼で、后はほんのわずかの侍女と、猫とひっそりと暮らした。かつては仔猫だった猫も、やがて毛艶も衰え、目も見えなくなりはじめ、静かに死んでしまった。 

「その時も、后は涙をこぼさず、静かな目をして猫のなきがらをじっと抱いていたわ。后の庭では、輿入れしたときに植えられた白梅の花びらが、打ち寄せる波のなごりのように風に散っていた。それからしばらくして、房には新しい后が入って来たわ。わたしの話はここでお終い。今となっては全部、昔むかしのお話…」

***

語り終えると花椒は下を向いて黙り込んだ。
「どうしたの、花椒」
「なんでもないわ」
俯き続ける花椒の膝に、透明な雫がぽつりと落ちて、赤い絹地に小さな染みができた。
「花椒、泣いてるの」
「なんでもないってば」
こぶしでぐいと目をぬぐって強気な表情で顔を上げた花椒の瞳は、だがやはり潤んでいた。
「泣いてなんかいないわ。ただちょっと……清春がかわいそうだと思っただけよ。私が忘れたら、もう誰も春清の名前を呼んであげる人はいなくなるんだもの」

「花椒……」
意地を張る花椒の姿を、ローリエが慈しみ深い目で見守っている。
「花椒、大丈夫だよ。ぼくらだって春清のことを知ることができたんだから。春清のことは、ぼくらもきっと忘れないよ」
「それなら、ちょっとはいいけれど…」
うつむいた花椒は小さな声でつぶやいた。それからはっと顔をあげると、もとの強気な態度を取り戻した。

「とにかく!そんなわけで、私は高貴な出だってこと。わかった?」
「よくわかったよ。花椒はいい子だね。優しい涙はね、隠さなくていいんだよ」
花椒の顔は赤くなった。
「帰るわよ、ローリエ!」
花椒はローリエの腕をとってぐいぐいと引っ張った。
「じゃこれで!さよなら!」

花椒の声と同時に、目の前にはぱっと赤い霧が立ちこめ、花椒は消えてしまった。あたりには花椒の強烈な香気が立ち込め、バルコは噎せ込んだ。

後に残されたローリエは申し訳なさそうな表情を浮かべた。おそらくいつもこうして花椒のお守りに苦労しているのだろう。

「本当に聞き分けがなくてお恥ずかしゅうございます。まだまだ子どもで…。次にお目に掛かる時はもう少し淑女らしくなっているとよいのですが。それでは申し訳ございませんが、わたくしもこれで失礼致します」
「いえいえ、なかなか面白い子でしたよ。貴女もどうぞお元気で」

ローリエは片膝を軽く折って礼をすると、その姿は足元から徐々に煙に変わり、あたりに爽やかな香りだけを残して消えてしまった。

***

その場に残されたバルコは、しばらく椅子にもたれていた。后は——春清はそれからどうなったのだろう。目を閉じると、逢ったこともない春清の、瞼を伏せた表情が闇の中にほの白く浮かんだ。 バルコの瞼の裏で、春清はゆっくりと目を開き、何かを伝えるかのように微笑んだ。東の空が明るむとき、朝霧のなかで蓮の花が開くようだった。

「逢えたんだね。生まれ変わって、あの人と」
バルコは、后のために涙をこぼしていた花椒にそのことを教えてやりたいと思った。

香りが完全に消えた頃、書架の間に人影が浮かび上がった。
「いかがでしたか」
現れたのは司書の少年だった。
「こんどのふたりはだいぶまともだったよ。もっともローリエのおかげでだいぶ助かった部分はあったけど」
「ローリエは優しいですね。一緒にいると安らぐし、栄えある太陽の神に愛されたと言い伝えられているのも分かりますよ。まあ、ローリエにとってはうれしいことではなかったようですが…。あとね、ローリエは【予見のハーブ】とも呼ばれているんです。ローレルの葉を枕の下に敷いて眠ると予知夢をもたらすと言われているそうですよ。彼女たちが去った後、なにか夢をご覧になりませんでしたか」

バルコは、瞼に浮かんだ春清の白い顔を思い出した。
「夢と言われれば、夢のような…」
「そうでしたか。いい夢だったようですね。あなたの表情を見ればわかります。その夢はきっと、現実のものになっていますよ」
司書はにっこりとほほ笑んだ。

「さあ、まだお時間があるようなら、あとおひとつ試されてはいかがでしょう」
「そうだね」
今日はバルコは食事当番ではない。夕食までに船に帰ればいい。
「お願いするよ。君の選択眼を信じて」
司書は頷くと、書架へ向かった。少し考え、壜をひとつ手にして戻ってきた。
「こちらではいかがでしょうか。これなら怖いことはないと思いますよ」
壜には、黒褐色の小さなさやが幾本か透けていた。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894 ☆この話
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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