幻想を報告せよ -公務員カフカの冒険
【水曜日は文学の日】
ある朝、普通のサラリーマンが毒虫になってしまう小説『変身』で名高い小説家フランツ・カフカは、本当に不思議な「ありよう」の作家です。
個人的に興味深い作品は何個かあれど、なぜここまで研究者から読者まで、惹きつけてやまないのか、ちょっと驚くようなところがあります。
私が今興味があるのは、彼の「生き方」と「書き方」です。
それは、一見新奇なようでいて、実は、文学史のある種の伝統に即しています。だからこそ、彼の作品がここまで受け入れられているように思えるのです。
フランツ・カフカは、1883年チェコ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)のプラハ生まれ。大学を卒業し、短期間、保険会社に就職した後、プラハの労働者傷害保険協会で働きます。
半官半民ですが、公務員の地位が保証され(本人曰く「オーストリアの官僚制度に腰まで漬かっていた」)、何よりも、残業なしで午後退勤できて、執筆に時間を当てられるため、カフカは次々に作品を書くことに。
いくつか作品を発表し、婚約をするも、結核を発症。療養も空しく、1924年、40歳で亡くなっています。
カフカの作品には、様々な解釈があります。
例えば彼の「ユダヤ性」。定住できずに彷徨う人物たちの面影に、両親がユダヤ人だった彼の思考の一側面を読み取るもの。長編小説『城』で顕著です。
20世紀後半に流行したのは「不条理」の作家としての側面。『審判』や『変身』で、登場人物の受ける凄惨な「掟」の仕打ちを淡々と描く、その描写。サルトルの哲学やカミュ『異邦人』の先鞭として。
あるいは、そういうものを全部取っ払って、奇妙なユーモア寓話として楽しんでしまおう、という考え方もあります。故池内紀氏等が、強く仰っていました(氏の訳は非常に読みやすくアレンジされていました)。
これらの解釈は、どれも間違ったものではありません。名作とは、解釈が一致しているから残るのではなく、謎めいて様々な解釈を許すからこそ、死後も生命を持つものです。
私が興味深く思うのは、単純に、その文章の読みにくさです。どれだけの人が、あの文章を、心から楽しんで読んでいるのでしょうか。例えばこんな一節。
描写がこまごまとして、長い。長編小説でこれをやられると大変です。大作『城』の次の一節。
一言で間違えましたと言えばいいところを、ここまで延ばされる。或いはこんな文章。
描写が詳細というよりも、全てを書かずにいられない、強迫観念的なものを感じるのです。
ところで『木工回転鉋盤における災害予防措置』という作品の名前は初めて聞いたと思う方が、いらっしゃるかもしれません。そう、これは、日本のいかなるカフカ小説集にも出てきません。
これは、労働者傷害保険協会に勤務する公務員カフカが、仕事のために書いた論文の一節だからです。
この文章は、講談社『現代思想の冒険者たち』シリーズの一冊『カフカ』で平野嘉彦氏が、紹介していました。
カフカを詳細な読みで読み解くこの名著。是非、講談社学術文庫で復刊してほしいと思いますが、私はこの断片を読んだとき、はっとしました。
カフカの作品は、彼の本業だった公務員の仕事に、想像以上に、密接に関わっているのではないのでしょうか。
彼の作品のスタイルは、一言で言うと「報告書」です。『あるアカデミーへの報告』や『あるたたかいの記』のような、あからさまなものもあります。
彼の「寓話」も、この詳細な報告スタイルのものです。グリム兄弟の童話やラ・フォンテーヌの寓話とは、真逆のスタイルです。
報告書というのは、いかなる場合でも論理的に、冷淡に対象を捉えなければいけません。
そして、反論を封じるため、ある種の断定と、緻密そうに見える(よく考えると、実は緻密でない場合もそこそこある)長大な論理の組み立てが必要です。
『城』の、延々と続く長い言い訳や『変身』のように、どんな幻想的な情景や異様な動物でも感情をこめない描写は、官僚的な、言葉の文字通りの「お役所仕事」のスタイルのように思えるのです。
しかし、それは、カフカに限ったことでしょうか。
ここでちょっとクイズを出してみましょう。下記の5人の作家の共通点は何でしょうか。
正解は、全員、大学で法学を専攻していることです。
ダンテは、中世の名門ボローニャ大学で法学をみっちり学んでいます。ゲーテは、ライプツィヒ大学→ストラスブルク大学法学部卒業後、弁護士資格を取得。作家として高名になった後は、ヴァイマル公国の閣僚になった官僚です。
E・T・Aホフマンは、ケーニヒスベルク大学の法学部出身で、判事、裁判官としても生涯活動。カフカは、プラハ大学法学部卒。
クローデルは名門パリ大学法学部卒業後、外交官試験に合格。高級官僚として出世し、最終的には、駐日大使、駐米大使まで勤め上げています(ちなみに、駐日大使時に、関東大震災に遭遇して、その印象を書き残したりしています)。
勿論、だから偉いわけでも何でもありません。ただ、高見温さんが以前、Xで呟いていらっしゃいましたように、法学部と文学というのは、実は結構関わりがある、ということです。
日本だと作家というのは、法律や官僚と関係がないイメージが一般的な気がしますが、そもそも、言葉の扱いに長けている人が作家となるわけです。
作家が外交官や文化大使のような官僚として活躍するのは、文学史において、決しておかしなことではありません。(法学部卒で一番有名な日本作家は、恐らく三島由紀夫であり、彼が大蔵官僚をドロップアウトしているのも、興味深いところです)。
この法学部出身の「官僚作家」たちには、一定の特徴があります。それは、一文が長く、本を文字で埋め尽くすように大量の言葉が並ぶこと。『神曲』や『ファウスト』の長さ。『繻子の靴』は上演9時間の大作です。
そして、どこか幻視的な作風で、異様に構築された、驚異の幻想風景が立ち上ること。『神曲』やホフマンの作品のように。
それは、彼らの根底にあるのが、「法」の論理であるからのように感じるのです。「法」とは、人の行動を規定する文書であり、言葉の論理によって、世の中を変える。
それと同じように、作家たちは大量の言葉を組み合わせ、今ここにはない幻想を生み出すのです。
カフカは、そのような「法学部幻想作家」の伝統に連なる、報告書を得意とした「お役所仕事」作家の最上の一人のように感じます。
彼が報告する、言葉を組み合わせて作られた幻想とは、永遠に意味づけを拒否しているかのような、不思議な世界。そこを小説という形式で報告することが、彼にとっての文学の冒険なのでしょう。
そんなことを考えながら、カフカの作品を読み返すのも、一興かもしれません。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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