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自然と対話する

人は自然の一部分

権力ある人=お金持ち

だと思っている方も多いだろう。

豪華な宮殿に住んで、贅沢三昧する姿が思い浮かぶ。しかし、ひと昔の日本では違っていた。

士農工商

社会の時間で「士農工商」を習ったと思う。「士」は侍。「農」はお役所さん、「工」は職人、「商」は商人と言うふうに。

私が中学生だった頃は身分制度と教えられた。今は違うらしい。「職業分類」と教えられているそうだ。

実際、身分制度というには少しおかしい。なぜなら、身分というのは不変であるからだ。しかし、日本の「士農工商」はただの仕事のため、農民から侍になることが可能だ。なので、完全な「身分制度」ではなく、やや「身分制度」が感じられる制度程度であるものである。

「えた、ひにん」という分類も存在する。実際当時の日本では「えた、ひにん」は差別の対象ではなかった。江戸時代までは、「えた」は通常の仕事ができなくなってしまった人が動物を捌いたり、死体を処理したりしていたというもの。「ひにん」は今で言うと、犯罪人。当時は刑務所などは存在しないため、「人ではない」、つまり「否人」となる。

社会の構成から考えると、そういう分類があってもおかしくないからだ。

しかし、「士農工商」及び「えた、ひにん」みんな平等であったのだ。

お金に関して、一番持っているのは「商人」である。次になんと「えた」。お金持ち順に並べると、商、工、農、士となる。実は侍は借金だらけだったそうだ。

ここで面白いのが、お金持ちは商人、貧乏は侍。しかし、権力がないのは商人、権力があるのは侍と全く逆なのだ。

この現象が起きているところは実は日本だけ。中国やヨーロッパでは管理する人(王様や貴族、官僚)がお金も権力も持っている。庶民は金もないし、力もない。

日本はこれを分離したのだ。力があるのは貧乏。金持ちは力がない。江戸時代では各藩借金だらけ。多くの侍が内職をする生活を送っていた。夕食を食べたら、家族みんなで内職をするそうだ。

それとは反対に、農業で豊かなところは夕方からお酒を飲んでたらふく食べていたそうだ。

これからわかることとして、人間は権力と金を両方入れたらダメになると言うこと。

このバランスが取れた状況。これが昔の日本であった。

自然をよく見る

かつての日本は自然と調和していた。自然をじっくり観察し、自然をも味方にする。

もし昔の日本の精神が今でも存在していたとしたら、私たちはコロナウイルスを敵とはみなさずに、共存の道を歩んでいただろう。

祖先をよく見る

祖先はただ血が繋がっている人を指しているわけではない。その地域、自然、全ての人から考え、体、環境ができているということだ。

自然に還る

人は自然という大きな枠組みで見れば、皆平等。さらに言えば、私たちは命が尽きたら、土に還る。体を構成していた酵素や炭素、水素、窒素などは気体となって、地球にばら撒かれ、そのうち他の生物などに取り込まれながら、どこかでリサイクルされていく。いわば輪廻のようなものだ。

自然と向き合う。そして私たちは大きな枠組みの中の一部分だと考えて生きていくと社会の見方も変わるのではないかとも思う。

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