ヨーコと青田宗助

ヨーコの日々の日記と、青田宗助の文章置き場です。

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マガジン

  • 雨月日記

    2012年に書いた「雨月日記」です。文章と万年筆で描いた絵。

最近の記事

褒められると泣きたくなる

ポーカーフェイスと言えば聞こえはいいけれど 私は人見知りだ。新しい環境に入ったときなど、そこにいる人たちが「私のことを否定しない」と分かるまで、むっすりと押し黙ってしまう。挨拶もほとんどままならない。体調が悪いか、機嫌が悪いか、不愛想な人と思われてしまう。「こわかった」という人もいる。 人生がやる気を出してくれない 昔はこんなんではなかった。調子のよかったころは逆に誰彼なしに話しかけて、「君としゃべった後はみんな笑顔になって仕事に戻っていくね」と言われたぐらいだったの

    • 孤独は脳の反応の違いだったらしい

      こんなツイートを見た。 詳しくは引用元のリンクに飛んで欲しい。僕はもう長い文章は読めないのでほとんど飛ばし読みだ。間違って理解しているところも多いと思うから。 孤独のハンニンは脳の反応の違いだったぜ ざっくり言うと、同じものを見ても人によって感じ方が違って、同じ感じ方をする人が近くにいると孤独感を感じにくく、みんなが自分と違う感じ方をしていると孤独を感じやすい。ほんで孤独感の強い人はだいたい人と違う感じ方をするのでよけい孤独になりやすいんやわ。それをfMRIっちゅー脳の

      • ツイッターAPI回数制限に際し思うこと

        ぜんぶイーロン・マスクのせい APIが何なのかよく分からないけど、とにかく自由にツイッターが見られなくなる、ということらしい。お金払っている人は1日10000件まで、そうじゃない人は1000件まで、新しい人は500件まで。人のツイートを見られなくなって、自分のツイートだけ出来るらしい。 通信手段を断たれた世紀末の世界で、一人誰に届くかも分からない通信を送っている気分である。 つってもツイ廃に歯止めが効くのはいいことかも 個人的に、ツイッターとの距離感は考えなきゃいけない

        • 38.6℃

          汚れた町の屋根の下で あの娘の手は 煮えたリンゴの鍋にシナモンを放り込み 美しい歌を歌いながら世界を回転させる それでも 僕は鮮やかな歌を 遠い場所では賑やかな歌を 楽器も無いのに町はうるさくて 庭先で独りぼっちの膝に夢を抱えて見ていた少女は 人見知りの小さな赤ん坊を置いたままで 紙魚のついた純白のドレスを着込んで あの伝言板の額縁に収まった 38.6℃と 僕の腕に 涙で云ったのは あの娘 誰も彼も掲示を捲って往っては軋む あの騒々しい伝言板に 安直な飾り付けをする痴

        褒められると泣きたくなる

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        • 雨月日記
          13本

        記事

          あとがきのあとがき/雨月日記

          https://note.com/aotasousuke/n/na94649095be3 あとがきのあとがき  十年前にこれを書いてから十年が経った。当たり前のことだが、「十年前にこれを書いた」ということと「それから十年が経った」ということは、私の中で別々に大切なことなのだ。この十年の間に私の自称は「僕」から「私」になった。尾形亀之助が子に宛てて「事実、親と子は、一緒に歩けはせぬのだ」と言ってから数十年が経ったが、私は今も「僕」が生きていて、私がその「あとがき」の「あとが

          あとがきのあとがき/雨月日記

          あとがき/雨月日記

          あとがき  梅雨の間に詩文集を出すなどと気まぐれのように思い付いたのが、六月二十五日のこと。体感的な暦の上では、もう梅雨も終わって欲しい時期になっていたのに、詩文集を編むという、日常生活においてあんまり大それたことでもない事の不言実行の為に、梅雨がいつまでも終わらずのびのびに伸びて、季節を征服してしまえば良いと思ったりもした。けれども、それではいつまでも夏が来ないじゃないか、と気付いて最初に書いた「序文」の三行目に差しかかったぐらいで、その思想を捨てた。結局、胃腸風邪をこ

          あとがき/雨月日記

          個人詩論/雨月日記

          個人詩論  本当にそう思っていることを、本当にはそう思っていないように書いていくのが詩人の仕事であるのだから、本当にそうは思っていないのだろうと思っても、本当にはそう思っているのかもしれない。そう思ってみても、詩人が自分で思っていることを本当に分かっているのかと言えば、自分の詩が何を言っているのか分からないという詩人まであるらしいのだから、僕のような素人詩人には堪ったものではない。それでも、あえて「私でもよく分からない」などと嘯いて、自分だけは分かっているといった風に、ほ

          個人詩論/雨月日記

          Franz Kafkaの墓標/雨月日記

          Franz Kafkaの墓標  「僕が死んだら、一切の作品は燃やして下さい。」  その墓標には何が書かれているのであろう。裏切りの中で生きてゆくことは、悲しみのない存在ということに他ならない。  F. Bauerへの手紙は、他人の手で書き直しても誰にも届かない。Prahaの街を歩く幽霊に、風は吹いていない。  F. Kafkaに、僕もまた。つまりは、それを書かなかったから、そうでもないと思われた。  僕は彼の最初の本を、墓石に見立てて苦瓜を買いに行き。部屋

          Franz Kafkaの墓標/雨月日記

          「タバコの煙で殺人が出来ます。」/雨月日記

          「タバコの煙で殺人が出来ます。」  何処かの国ではこんな謳い文句がタバコの箱に書かれているらしい。やはりそうかと言うか、僕自身はタバコの煙で殺された経験があるので、非常に感慨深い言葉ではある。最初は子どもの頃に付き合った真里で、窓辺で関係の別れ際に、紫煙を燻らせながら「あんたの様な男は自殺してしまえばいいのよ。」と言われた。タバコの事を愛していた真里に、関係を始めるなら自分の前では吸うな、と言ってからついぞ僕が彼女のその姿を見ることはなかったのだが、そもそもそれが気に喰わ

          「タバコの煙で殺人が出来ます。」/雨月日記

          孤独な小説家が撮った千本鳥居の前で振り向く情婦の写真を買いたい/雨月日記

          孤独な小説家が撮った千本鳥居の前で振り向く情婦の写真を買いたい  孤独というのはいつの時代も物書きのMineralのようなものだが、少しばかりは意識して野菜を摂らないと身体が動かなくなって「肉ばかり喰っていては駄目だった」と倒れてから病床で考えてもあまり意味がないように、常日頃から孤独の中に身を置いていなければ、それこそ病的に肥満したような作品しか書けなくなってしまうという風に教える物書きもあるらしい。僕などは毎日寂しいようで、行きつけの喫茶店の店員の足などに挨拶をしては

          孤独な小説家が撮った千本鳥居の前で振り向く情婦の写真を買いたい/雨月日記

          魚に話/雨月日記

          魚に話  刺し身だったり煮魚だったり焼き魚であったり、魚屋に行っては安いものはないかと言って、脆弱な命の欠片を毎日々々、食べているにはいる。魚に貧血はあるのだろうかと思いながら、皿の上で反り返る物に、それも今となってはどちらでもいい事かと、手を合わせて木箸を入れる。「アタシ貧血ナノ、」などと身体の小さな悩みでも打ち明けられれば何か僕にもしてやれる事があったのかもしれないのに、僕たちが出会う事を確定された頃にはもうすでに息も絶えて運ばれる用意をされているのだという、分かりき

          魚に話/雨月日記

          性教育/雨月日記

          性教育  何の関係の話だったか、女の友達と話していて「人間にも発情期を復活させて欲しい」などという旨の事を言ったが、それは完全な平和の為の発明的な考えであるわけもなくて、どちらかと言えば、終身刑の囚人が苦しまぎれに思い付いた陳腐な脱獄の方法に似ていると思ってしまって欲しい。僕は男だから、と言うと言い訳になってしまうけれども、性に関しての牢屋に自分を含め、沢山のオスがいつでも囚われているような気がしてならないところがある。毎日の満たされない欲求が、他人から機会を与えられるか

          性教育/雨月日記

          犬の居る隣家/雨月日記

          犬の居る隣家  愛犬がいる。犬は隣家に住んでいる。ここまでで、僕と僕の犬に対する異常さと言うか、そういうものが識者にも理解してもらえると思う。つまりは「愛犬」は愛している犬なのである。飼っていなければ愛犬ではない―――そうでもあるなら、犬などもう一生飼わない。僕は、もしも犬を飼う事があるなら、恋人ぐらいには自分の犬を「愛犬」と呼ばせてやりたい。それでも、僕はその隣家の家人である馴染みの友人の妹にも、下らないRomanceの御相手にもされないのだから、その資格はないのかもし

          犬の居る隣家/雨月日記

          懐春詩作/雨月日記

          懐春詩作  今年のずいぶん自分にとって、特別だと言い放ってしまえるほどの楽しい春が終わって、数ヶ月が経った。僕はそれに意味を見出そうとはしていないようだし、僕に二人の赤ん坊を殺された恋人も、もうそれもどうでもいいのだろう。この話は初めから始まっていないのだから、終わる事もないだろうし、始まらないから御仕舞いなのだと、山之口獏は言っていた。楽しかったが捨ててしまった春のことを考えるよりも、狂おしいくらいだが拾い上げた「梅雨」という季節のことを思うほうが利口だと思ってしまうの

          懐春詩作/雨月日記

          六月終期/雨月日記

          六月終期  雨が降りかけている。いっそのこと景気良く降って欲しい気もするが、三時に外出するのでその時は止んでいて欲しい気もする。こういった僕のような勝手な願いには、天気の女神は愛想良くしてくれない。それが小さな少女のような神であるなら、幾ぶんか気紛れにしろ、僕の希望を聞き入れてくれるような思いもあることはある。ただそれを僕は見透かされて、余計に豊満な女神は機嫌を損ねるのだろう。だから三時にはきっと雨が降る。  頭の上で雉が鳴いている。通学路で子供が泣いている。庭先で少

          六月終期/雨月日記

          序文/雨月日記

          序文(こっそりと尾形亀之助に寄せて)  六月。僕がこの小さな詩文集を作製することに、何ら積極的意味もない。殊更にその事を宣伝するつもりもない。そうかと言って消極的な意味合いもない。この集を出すことを言い訳に、死んでしまおうと思っているわけでもない。毎年のことのように梅雨に入ってずいぶん経ったが、今月の初めからなんだか疲れている。身体が重いというのもあるが、覇気がない。それは自分の根源を見つける作業をして、整理すれば何とかなる代物だと知ってはいるが、そういうことはとても疲れる

          序文/雨月日記