懐春詩作/雨月日記

鏡の中の赤ん坊

懐春詩作
 
 今年のずいぶん自分にとって、特別だと言い放ってしまえるほどの楽しい春が終わって、数ヶ月が経った。僕はそれに意味を見出そうとはしていないようだし、僕に二人の赤ん坊を殺された恋人も、もうそれもどうでもいいのだろう。この話は初めから始まっていないのだから、終わる事もないだろうし、始まらないから御仕舞いなのだと、山之口獏は言っていた。楽しかったが捨ててしまった春のことを考えるよりも、狂おしいくらいだが拾い上げた「梅雨」という季節のことを思うほうが利口だと思ってしまうのは僕だけだろうか。そうして、僕は僕が僕の生活に何かを見出そうとしているのかどうかは分からないが、それにはそれで興味がある。全く、僕は僕など捨ててしまえばと何年も前から思っているが、それもそうも行かないことが何年も続いているのだからそうも行かないのだろう。自死してしまえれば、例えば部屋の扉を開けたら地球の上のすべてがなくなっていて、それはつまり虚無なのだと教えてくれた舞踏の先生の言葉が、まぎれもなく本当の事だという事を証明できるのだから、その先生の事を好きならば僕は彼の為に死ぬべきだと言ってしまった方がいいのかもしれない。ただ僕は、それはたぶん解放なのではないかと先生に好意的な疑問を投げかけながら言った僕を客観化する為にも生きるのだ。それだからこそ、僕は手鏡を見たりする。そう言う、自分の顔に興味があるわけだが、小さな鏡ではそれこそ自分しか映らずに、僕が他人様と絡まれ合いながらしている生活の中で何を考えているかは、その中だけではまったく分からない。会った事もない東京にいる贈り物をしただけの年上の女や、僕を愛してくれなかった母という女、ついでに以前の人生で人生を連れ添ったかもしれない女たちの幽霊が、自分の垢で汚れた手鏡のガラスの上に、今日も通りがかるのをただ見て待っているだけだ。その女の幽霊たちは、僕に別に話しかけもしないし、僕も話しかけることも出来ないと思っている。ただ、そのガラスの向こうの銀膜に、僕の味のしない詰まらない血液を、垂れ込ませたいと考えたりするだけだ。それから、そうする時には、あの手首を切っていた初春の恋人が、愛おしい殺意を持って思い出されるという事を、僕はもう思い出さないように書いておく為の詩作だということである。


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