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ツイッターAPI回数制限に際し思うこと

ぜんぶイーロン・マスクのせい

APIが何なのかよく分からないけど、とにかく自由にツイッターが見られなくなる、ということらしい。お金払っている人は1日10000件まで、そうじゃない人は1000件まで、新しい人は500件まで。人のツイートを見られなくなって、自分のツイートだけ出来るらしい。
通信手段を断たれた世紀末の世界で、一人誰に届くかも分からない通信を送っている気分である。

つってもツイ廃に歯止めが効くのはいいことかも

個人的に、ツイッターとの距離感は考えなきゃいけないなと思っていたところだったので、強制終了も一つの機会ではある。顔も本当の名前も知らないような人との、あるのかないのか分からないような関係に沈溺するのはよくない。というより、目の前の決して楽しいことばかりではないが結局その人たちを頼るより他ない、現実の人間関係をおろそかにしては生きてはいけないという生活の事実を、イーロン・マスクの暴挙(?)は私に再確認させた。

人間関係もサブスクリプションの時代

データはいつ消えるか分からない、サブスクの音楽も電子書籍もサービスが終了すれば終わり、現物を残しておけ、と。まさか(顔も名前も知らないが)やり取りのあった人たちとの関係まで、消え去りそうになるものなのかと、考えてみれば当たり前のことなのだが、その希薄さにちょっと怖くなる。

あら、ステキな仮面ですね

あまりにもお手軽だったのかもしれない。顔も名前も声も、どんな雰囲気の人なのかも知らず、テキストだけでやり取りする。ヴァーチャル仮面舞踏会。期待も失望も、信頼も軽蔑も、賞賛も罵倒も、好意も敵意も、お互いに相手をどれほど知っていてそれを差し向けているのかってレベルだ。ヴァーチャルなドレスの裾がちょっとほつれてますよ、って教えてあげられるぐらいの関係性でしかない。

寂しい私は幽霊になってしまう

この後の文章を書いては消し書いては消している。結局、今回のことで、拠り所にしていたものがまっさらになりそうな怖さと、そもそもの希薄さ、それに頼っていたことの情けさな、みたいなものがつめたーく襲ってきていて、自分がとても寂しい人間のように思えてとっても辛いのだ。実際そうなんだけど。

仮面舞踏会はとつぜん解散になるから

ちゃんとリアルの目の前の人たちと、時につらくても合わなくても、楽しいこと嬉しい瞬間もたくさんあるのだから、悲観ばかりせず前向きに付き合っていかなきゃと思う。けど一方で、手触りのあるものに触れていたいと思う。それは現物があれば満たされるものでもないから、目も耳も心も、何か全身でそれを感じられるような、そういうものに触れていたいとずっと前から願っている。


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