個人詩論/雨月日記

個人詩論
 
 本当にそう思っていることを、本当にはそう思っていないように書いていくのが詩人の仕事であるのだから、本当にそうは思っていないのだろうと思っても、本当にはそう思っているのかもしれない。そう思ってみても、詩人が自分で思っていることを本当に分かっているのかと言えば、自分の詩が何を言っているのか分からないという詩人まであるらしいのだから、僕のような素人詩人には堪ったものではない。それでも、あえて「私でもよく分からない」などと嘯いて、自分だけは分かっているといった風に、ほくそ笑んでいる詩人もあるかもしれないし、それにそう言ってしまえるということは、読解困難という事実を自分で分かった上で提示しているということであって、それは、その詩について唸りながら熟考している読者を、すっぽりと包み込んでしまうことでもあって「私にも理解できない詩がある」などということを、自身の詩人生の中で経験してしまった者には、素人では到底理解出来ない何かがあるのだろう。また更にはそういう詩人の中でも、どんな困難な詩を読んでも、まったく平気そうな顔をして詩会の真ん中に鎮座しているような親玉詩人がいて、他の詩人であっても「先生には敵わない」などと言わせてしまえれば、それはもう誰にも文句は言われないのだろう。つまり詩人は詩人を超えてこそ、詩人になれるわけだが、それには結局のところ本当は何も分かっていない僕みたいな素人詩人が適当なのである。その無知ゆえに素人は神様であるからして「僕にも分からない詩がある」などと言ってしまえば「神様には敵いません」とならなければ可笑しい話であって、詰まるところ、だから素人は神様になり、詩人になれるわけである。だけれども、僕のような素人でも敵わない相手が居て、それはつまり素人でもないただの人間たちなのである。詩を読んだこともなければ書いたこともない、そんな人間たちが、もっと無知なのは尚のこと明白であって、僕のように詩人を志すものは、ただの人間から、素人になり神様になり、やっとの思いで詩人になったのに、結局は人間に超えられる。こんな愚かしい『いたちごっこ』みたいなことが、つまりは詩を書くということなのだと、一人の詩人志望として、僕の個人的な詩論をここにまとめて置くわけである。―――が、そうこうと言ってはみても、次の詩集の時までには、まるで違うことを言っている可能性もままあるのだし、まったく詩人とは”食えない”職業なのである。

渡りに船

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