孤独な小説家が撮った千本鳥居の前で振り向く情婦の写真を買いたい/雨月日記

神様も兎の様に情婦を飼うのだろうか

孤独な小説家が撮った千本鳥居の前で振り向く情婦の写真を買いたい
 
 孤独というのはいつの時代も物書きのMineralのようなものだが、少しばかりは意識して野菜を摂らないと身体が動かなくなって「肉ばかり喰っていては駄目だった」と倒れてから病床で考えてもあまり意味がないように、常日頃から孤独の中に身を置いていなければ、それこそ病的に肥満したような作品しか書けなくなってしまうという風に教える物書きもあるらしい。僕などは毎日寂しいようで、行きつけの喫茶店の店員の足などに挨拶をしては、前の恋人や前の前の恋人や、近くの街の大学が同じだっただけの女の友達にまで、毎夜手紙を書いては明日の昼に投函するといったような生活を送っている。気分の良い時などは、僕を好きになった娼婦を家に呼んだりして、着ていた服は勝手に脱いでしまうのでそれは放っておいて、裸に葡萄酒などを飲ませて金も渡さずに手も付けないで、顔を赤らめた女に車を呼んでやり軒先で手を振ったりする。かくも人間とりわけ女々が居なくては僕の生活はままならないのであるが、昔の孤独な小説家が撮った千本鳥居の前で振り向く情婦の写真を買いたい。それは全然突飛な考え付きではなくて、現代の街に溢れる卑猥な映像のように、さあ今からこの女を犯してやるんだと言ったような、赤い鳥居と黒い髪のContrastが鮮やかで美しい写真でなければならない。僕の中にある芸術家の革命的な夢みたいなものが、いつか本当にそうした孤独な小説家のMensで汚れた筆先によって、それこそ革命のように書き変えられる。物書きとはなんとしても孤独でなければならずだからこそ、結婚する気もない情婦を墓に入れるまで可愛がらなければいけないということを、小説家が詩人である僕に対して時間を越えて語りかける。僕はその写真を見ながら、色々と考えるだろう。女を情婦として本当に愛したのだろう、女が金に困れば身体と引き換えに多額の金で呼んでやったのだろう、殴ったり蹴ったりしながら、でも生涯、女を見捨てなかったのだろう。孤独と本当の愛は、人生で同棲させる事が出来る。これらがあれば芸術家になれるのだと、物書きが書いた作品よりもやっぱりそんな、孤独な小説家が撮った千本鳥居の前で振り向く情婦の写真を買いたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?