尾崎豊と私
今年も冬を迎える。
僕の好きな人の一人に「尾崎豊」という人間がいる。
尾崎豊は日本の歌手だ。
有名な曲には『盗んだバイクで走り出す』で知られる「15の夜」
『夜の校舎の窓ガラス壊して回った』で「卒業」
『今だけは悲しい歌聞きたくないよ』の「I LOVE YOU」あたりが特に知られているだろう。
僕が尾崎豊を知ったのは大学3年生の頃だ。
当時の僕はカラオケによく通っていて、友人ともよく歌っていた。
その時の私の曲のレパートリーがアニメ系ばかりだったのもあって、無難に歌える歌を色々と練習していたころだった。
そんな無難な曲の中に、尾崎豊の「I LOVE YOU」がいた。
当時はまだyoutubeでアーティストの曲を聴くというのはメジャーじゃなく、上がっていても違法アップロードだ。
著作権を考慮する私は、TSUTAYAでよくCDを借りた。
当時はONE OK ROCK、BUMP OF CHICKEN、稲垣潤一、松山千春、アイドルマスターの曲をよく聞いていた記憶がある。
そのプレイリストの中に、特に大きな出来事もなく「尾崎豊」の名前が入る。
とりあえず聞いてみた。
「I LOVE YOU」や「15の夜」は何となく知っていたので、こういう曲なのか、と思った。
「卒業」を始めて聞いたときは、「この人は何に怒っているんだろうか」と疑問に思ったのを覚えている。
「Scrambling Rock'N'Roll」の強すぎる歌詞が耳に残った。
「シェリー」や「Forget-me-not」のCメロで泣きながら歌を歌う歌手がいることに驚いた。
その時はライブ映像を買い漁るなどとは思っていなかったし、いわゆる普段聞く曲の中に尾崎豊が浸透していった。
ある日私は尾崎豊に関する動画を発見した。
これがその動画だ。
この動画を見て、私は正直な驚きと、そのテーマの深さにまた驚いた。
私の尾崎豊を視る目が変わった。
何となく聞いていた曲も聞き返した。歌詞も調べて読み始めた。
なんだ、尾崎豊が叫びたがっていたことは、私が叫びたかったことだったんじゃないかと気づかされた。
尾崎豊は私が無意識のうちに抑圧している、叫びを言葉にして歌にできる天才だと思った。
これが私と尾崎豊の「出会い」だ。
ここから先は、敬意と愛と誠実さをもって、「尾崎」と呼んでいきたい。
尾崎に「さん」づけは似合わない。
そこから私は、いわゆる哲学「的」なテーマに頭を煩わせることとなった。
つまり、「私とは何か」「人生とは何か」といった課題だ。
当時の私は、大学で教職課程を取っており、学問としては会計学や心理学が面白いなと夢中になっていた。
そのような視点から当時の私を振り返るならば、当時の私はこれを「アイデンティティの確立」の問題だと捉えていた。
学ぶことも、人間関係も、恋愛も、「僕とは、私とは、俺とは、いったい何なんだ」という問いの上に晒されていた。
そんな気分にさせたのは尾崎であって、そういう気分を欲したのが私だった。
そこから、僕は尾崎の曲を聴きながら、自問自答を重ねた。
教員採用試験のために、くそ真面目に図書館で勉強していた僕の横には、尾崎の「卒業」が常にいた。
尾崎の「卒業」を聞き続けていた。
本当の自分ってなんだろうかと。
そこから私は心理学にさらにハマり、文学や哲学を学び始めた。
教員採用試験の筆記試験が終わった後は、その勉強時間を読書に費やし始めた。
太宰を読んだ、夏目漱石を読んだ、サルトルを読んだ、ニーチェを読んだ、仏教に触れた。
しかし、そのそばにはずっと尾崎がいた。
教員採用試験の二次試験は、不安すぎて、前日は尾崎豊のアルバム「街路樹」をひたすら聴いていた。
面接にはもちろん落ちた。馬鹿正直すぎて、へたくそ過ぎたのだ。
当時の僕には、誠実さと正直さを分別する理性や、したたかに生きるということに欠けていた。
採用試験に落ちた現実を知った僕は大変悩んだ。
愚直すぎて、教員以外の仕事をする気が全くなかったのだ。
もちろん、就職活動などしていなかった。その時間をすべて勉強に注いでいた。
当時の私はキルケゴールを読みながら、自分の進路について大いに考えていた。
具体的な3つほどの選択肢にまで絞り込んだが、私は公立高校の常勤教諭として働く道を選らんだ。
僕はそこで特別就活などしていない、人脈で手繰り寄せた進路決定だった。
社会人として、教員として働き始めた。
僕のそばには尾崎がいた。私は毎日1時間半の電車通勤をした。
いつも、尾崎の「卒業」を聴いていた。
尾崎の「卒業」は聞く時によって、よく表情を変える歌だった。
時には大人たちへ激しく、時には人生の空虚さを嘆き、時には強く生きようとする意志が感じられる。
私は社会人の1年目の終わりにギターを買った。
理由はもちろん尾崎の曲を弾きたかったからだ。
始めに練習した曲は「ダンスホール」と「僕が僕であるために」だ。
教員として1年目を終えた私は、また採用試験に落ちていた。
やはり、面接が下手すぎる。
筆記試験と模擬授業はほぼA評価に近い形でパスしているのに、実にもったいないとしか言えない。
僕は社会人になってから11月が憂鬱すぎて仕方ないと思っていたのだが、大体採用試験の結果が来るのがこの時期なので、その学習の結果だろう。
僕は新学期の歓迎会でサルトルを語る人になっていたし、2月末・学期末には生徒の前で尾崎の「僕が僕であるために」を歌ってぼろぼろと泣いていた。
こんな僕を、先輩の先生は「サルトルボーイ」と呼んでくれた。
その先生は大学時代にドイツ観念論に挑戦していたそうだ。
とにかく不器用でもいいからまっすぐ生きていたい、それが私の信念だった。
社会人として2年目は、別な高校の非常勤講師として働いた。
2つの学校を掛け持ちしていたこともあり、授業だけの業務だがなかなか多忙だった。週に20時間は授業をしていた。
どこまで行っても、僕のそばには尾崎がいた。
教員採用試験に向けて何を頑張ったらいいか分からなくなった私は、とりあえず日商簿記1級の勉強をしていた。
正直、筆記試験はもう対策しなくても余裕でパスできると思っていた。
当時の私は、とにかくイライラしていた。
僕は理不尽な大人や偉そうな大人が大嫌いだ。
そんな人たちが僕の周りにくっついていた。
『信じられぬ大人との争いの中で いったい何分かり合えただろう』
どこまでも尾崎は僕に語りかけた。
そして、僕は案の定、面接でまた落ちた。
いい加減、学習してくれ。
僕は今年試験に落ちたら、公立高校は諦めると決心していた。
その決心をゆるぎなく実行するのが僕だ。
僕はとにかく負け癖をつけたくなかった。
仕方ないとつぶやいて、10年以上も非正規雇用で国に雇われるなんてまっぴらだった。
しかし、教員以外と考えると、僕に何ができるのかという問題はやはり顔を出す。
不安で仕方ない。学生時代に就活をしなかったツケが回ってきた。
どうやって転職活動して好いのかすらわからない。
結局として、僕は私立の通信制高校に正規雇用された。
これもまた、人脈から得た採用だ。
僕は公立高校の閉塞した気分が嫌だった。惰性で働く大人たちが嫌だった。
とにかく自由になりたかった。縛られたくなかった。
ここから僕は精神をぶっ壊すまで3年ほど勤務をするのだが、これはまたの機会にしたい。
まだ振り返るには早いのかもしれない。
私は次の職も決まった。勤務も大体慣れてきた。とにかく本を読み始めた。
カミュを読んだ、カントを読んだ、ニーチェを読んだ、ドストエフスキーを読んだ、形而上学を、自由意志を愛し続けた。
それでも、僕の隣には尾崎がいる。
時間軸を現在に進める。
私はいよいよ尾崎の年齢を超えようとしている。
僕の中の尾崎はいつまでの18歳の若々しい姿だし、代々木ライブの輝きを持っている。
それと同時にバースツアーの落ち着きのある尾崎も住んでいる。
尾崎に出会ってから8年目になる。人生の1/3だ。笑
インターネットの有名な言葉に「クラナドは人生」がある。
僕はクラナドを見ていないから、安易に比較はできないのだけれども、その慣用句を借りるなら「尾崎は人生」だろう。
僕はいまだに尾崎から色々なことを思い出させてくれるし、語りかけてくれるし、学ばせてくれる。
尾崎は僕にとって人生の態度だ。もちろん、これはフランクル的だ。
つまり、「尾崎はマインド」である。
尾崎の「誕生」の歌詞が、何度僕を助けてくれたか知る由もない。
僕は尾崎に憧れてギターを買って、革ジャンを買った。
普段はあまり着ない革ジャンを常に見えるところに飾っている。
尾崎は、時に僕に近づき、時に僕から離れていく。
これは僕と尾崎との間の対話である。
よい文学、よい哲学にも見られるように、読書とは他者との対話だ。
僕は歌を歌うことで、尾崎と対話し、自分と対話し続けているのだ。
最後に尾崎豊の歌詞の一部を紹介して終わろうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?