創作大賞2024 | ソウアイの星⑬
(十八)
家を飛び出した。わたしは早足で歩いた。急ぐ理由はない、ただ、動揺から激しく鳴る心臓の音が不快で、それをかき消したかった。
途中から小走りに夜の吉祥寺駅を目指した。駅に着くと、今度はその明るさに怯んで、逃げるように井の頭公園へ向かった。時刻は夜の九時を少し回っていた。
歩きながらポケットからスマートフォンを取り出し、華に電話をかけた。幸い華はすぐに着信に気づいてくれた。
「どした? 流香ちゃん。なんか、はあはあしてない? 走ったの?」
「走ってはない。ねえ、朔也くんに連絡とってくれない? 今すぐ。お願い」
「いいけど、気づくかな。今バンドでスタジオにいるから」
お願い試して、とわたしは泣きそうな声で言った。
華との電話を切ると、冷静に自分の姿をつま先から眺めた。服装はともかく、顔はきっとひどいことになっているだろう。だけど、今のこの湧き上がる衝動を抑えて無かったことにしたら、一生後悔する気がした。
華からの連絡を待つ間、橋の上から足漕ぎボートの白鳥を眺めた。綺麗に一列に並んだその細くて白い白鳥の首を数えた。
しばらくすると、手の中のスマートフォンが光った。
「え? ああ、流香ちゃん、おまたせ」
華からの着信を一秒で取ったわたしに驚きながらも、華は落ち着いて話してくれた。
「朔也くん、スタジオ抜けて今から流香ちゃんとこ向かうって。あとは直接朔也くんとやり取りしてくれる?」
わたしは華に、何度もありがとうを伝えた。落ち着いたら報告する、と約束して通話を終えると、その場にしゃがみこんでしまうくらい、力が抜けた。
「何してんだろう」
『ほんとだよ』
ルナは、なぜか楽しそうだった。
『何するの? 流香のことなのに、全然予想つかない展開なんだけど』
ルナに楽しみを与えてしまったことは悔しかった。だけど、自分でもよくわからないのだ。ただ、会いたい。今会わないと頭がおかしくなりそうだった。誰に会いたいのかと訊かれれば、朔也に会いたい。ステージの上の光る星、わたしの推しの朔也でなくて、繊細で、ときどき弱音を吐く朔也。銭湯で髪を乾かさずに石鹸の香りを全身に纏っている、いつもわたしの隣にいた朔也に会いたい。わたしの臆病さが遠ざけてしまった大好きな朔也に、今、どうしても会いたかった。
わたしは朔也に、井の頭公園の橋の上、とメッセージを送った。
『泣いてるの、流香』
「泣いてる」
『なんで?』
「好きって、自分で認めちゃったから」
『ありゃ』
「怒っていいよ。めちゃくちゃ暴れてもいい」
無理だよ、とルナは言った。
『流香自身がこんなに暴走してるのに、わたしまで暴れたら警察に連れて行かれちゃう』
わたしは少し笑った。
「それなら、せめてどぎつく怒ってほしい。最低だから、わたし」
ルナは数秒黙った。だけどそのあと、優しい声で言った。
『全く怒りはない。むしろ、やっと認めたかって感じで嬉しい。怪しい宗教を盲信してた親友を救えた感じ』
ルナは続けた。
『朔也くんと流香のじれったい恋を見ていられなくて、あたしが恋心を肩代わりしたのかなあ、あの頃。そんなふうにしみじみしてしまうわ。今のあたしは』
大人だなあ自分、とルナは言った。
「ルナは許してくれたとして、朔也くんはどう思うんだろう。今、めちゃくちゃこわい」
こわいよ、と言ってわたしは落ち着きなく駅の方向を何度も見ては、朔也がいつやって来るのかと緊張していた。
そして、ついに朔也の姿を遠くに見つけたとき、わたしは恐怖から背を向けてしまった。朔也から、ひどく蔑むような言葉をかけられるかもしれなかった。今後これ以上の付き合いを拒否される可能性もあった。これが、わたしたちが直接会える最後の夜になるかもしれなかった。そんな絶望的な気持ちのわたしの元へ、朔也が一歩一歩、近づいて来るのだった。
「流香」
朔也は言った。わたしの背後、割と近い距離に朔也がいることはわかった。ものすごくこわいのに、わたしは心の中で、もう一度名前を呼んでほしいと思った。新しい朔也の声帯を震わせて、もう一度わたしの名前を呼んでみてほしい。
「流香。ごめん」
謝らないで。悪いのはわたし。全部わたしの独りよがりだったの。
「メッセージさ……返したと思ってた」
『は?』
ルナが話し出そうとしている気配を感じて、わたしはあわてて振り返り、朔也を見た。目の前に立つ朔也の姿に、わたしは全身の力が抜けていった。
「ものすごく良く出来たシチュエーション」
わたしはつぶやいた。
「え、なにが?」
朔也はわたしを不思議そうに見つめながら、首にかけたタオルで顔周りの水滴を拭った。
「銭湯で髪を乾かさない、石鹸の香りを全身に纏った人に会いたいと思ってたから」
朔也は笑った。
「いる? そんな変なやつ」
朔也の眼差しは穏やかで、優しくて、無垢な素直さを持っていた。
「いるよ。わたしの大好きな人」
そう言ったわたしを、朔也はまっすぐに見つめた。時間にしてどれくらいだろう。初めて朔也とライブハウスで見つめ合った時間よりも長く、わたしたちは互いに目を離さずにいた。
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