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般若心経03/大乗仏教【仏教の基礎知識17】


「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

 【読み下し】
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ぜし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度せり。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色即是空、空即是色。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相なり、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。この故に空の中に色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意なく、色声香味触法なく、眼界なく、意識界もなし。無無明なく、また無無明尽、ないし老死の尽くることなく、また老死もなし。苦集滅道なく、智なく、また得もなし。得る所なきをもっての故に、菩提薩垂依般若波羅蜜多を行じ、心に罣礙なし。罣礙なければ、恐怖あることなし。一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟せり。三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神呪、これ大明呪、これ無上呪、これ無等等呪なり。能く一切の苦を除き、真実にして虚妄ならざる故に、般若波羅蜜多の呪を説く。すなわち呪を説いていわく、
掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提薩婆訶。般若心経。

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

漢訳本文:観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
読み下し:観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ぜし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度せり。
原典和訳:高貴なる観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の修行を実践しているとき、五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
マントラをジャパする修行
観自在菩薩が行った深遠な般若波羅蜜多の修行とは、一体どんな修行だったのか、これを明確にしておきましょう。それは、「掲諦、掲諦……」のマントラをとなえることなのです。マントラを静かにあるいは心の中で何度も繰り返して誦える修行を念誦法ねんじゅほう(サンスクリット語で「ジャパ」)といいます。その結果が、「五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度せり」ということなのです。
このあと観自在菩薩が「舎利子よ」と語りかけ、「五蘊皆空」の説明が始まります。「色不異空」に始まり、「無智、亦無得」までの段落が、その具体的な内容です。
なぜそのような素晴らしい成果が得られるかというと、これが「般若波羅蜜多」と称するマントラを念誦する修行だというのです。三世の諸仏も同じようにして最高のさとりを得ているのだとして、「故知(ゆえに知るべし!)」と続きます。
では、そのマントラはどういうものか、お教えいたしましょうと観自在菩薩が言い、最後に「羯諦、羯諦……」の句が示されるのです。(p41-42)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

尾題:これが般若波羅蜜多のマントラである

その直後に尾題が添えられています。玄奘訳では、「般若波羅蜜多心経」となっていますが、原典では「以上で、プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ(般若波羅蜜多のマントラ)、提示し終わる」となっていて、先に述べたように「経」にあたる話はありません。ですから、これを「尾題」と言っていますが、それはしいてタイトルを探せばこれが相当するということでして、私はこれも本文の一部と考えてよいのではないかと思っています。
つまり、この「尾題」は『般若心経』全体のタイトルなのではなく、「羯諦、羯諦……」の句をうけて「これが般若波羅蜜多のマントラである」と訳すべき文なのです。この最終句までが、観自在菩薩の台詞と解すべきでしょう。これが『般若心経』の全体の構成です。
「フリダヤ」の正しい解釈
タイトルの「般若波羅蜜多心」とは「般若波羅蜜多のマントラ」のことでした。『般若心経』の本文にそってタイトルの意味を考えれば、明白にこの上ないことであるにもかかわらず、なぜこれまでそのように理解されてこなかったのでしょう。
多くの解説者が漢字の「心」を現代流に勝手に解釈している原因の一つは、「心」という漢字に「真言」という意味があるとは思いもよらないからでしょう。
では、「フリダヤ」にマントラの意味があるかといいますと、そのような意味は一般のサンスクリットの辞書には載っていません。ですから、サンスクリットを読める現代の学者も誤解してしまうのです。しかし、インドの文献ではフリダヤ・マントラという言い方は珍しいことではなく、フリダヤがマントラの別称として用いられることはよくあるのです。(p43-44 )
現代の『般若心経』の解説書の中では最も評価の高い中村元・紀野一義訳注『般若心経金剛般若経』(岩波文庫)では、漢訳の経題についての註で、「梵文原典に最初からこの経名が附いていたのではない。原文の最後に『智慧の完成の心(真言)を終る』とあったのを、漢訳者が冒頭に持ってきて題名としたのである」と記し、「心」の後に括弧で「真言」と言い換えているのは、まったく正しい理解にもとづいています。
以上のことを繰り返してまとめますと、『般若波羅蜜多心』とは経典の最後の「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提、薩婆訶」のマントラをさします。したがって、『般若心経』の経題は「般若波羅蜜多のマントラを説いた経」というのが正解です。(p47)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

五蘊皆空

原典では色と空の関係を、
Ⅰ「色性是空 空性是色」
Ⅱ「色不異空 空不異色」
Ⅲ「色即是空 空即是色」の三段に分けて解説してある。
しかし玄奘はⅡとⅢの二段に省略した。(中村元)

【漢訳本文】舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是。
【読み下し】舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色すなわちこれ空、空すなわちこれ色なり。受想行識も、またまたかくのごとし。
「色不異空、空不異色」と「色即是空、空即是色」は同じことを言っているのか、それとも何か違った意味合いのことを伝えようとしているのか。さらにまた、「色不異空」と「空不異色」、「色即是空」と「空即是色」とは、それぞれ主語が入れ替わっているが、このように主語が交代することによってやはり何か別のことを伝えようとしているのだろうか。だれしもこうした疑問を抱かれることでしょう。(p90-92)
 なぜ玄奘が二段に省略したか
「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」は、原典では「色は空性であり、空性は色である」「色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない」「色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である」となっています。漢訳は二段に分かれているのに対して、原典では三段に分かれています。中村元博士は次のように解釈しています。「玄奘は原文に三段に分けてあったものを故意に二段に省略したということになる。短い心経の中で無意味に同じことを三度繰り返す必要はあるまい。三段それぞれに意味があったと見るべきであろうが、やはりに三段に分けることにそれほど重要な意味があったのだとしたら、それを二段に省略した玄奘は重大な過ちを犯していることになります。玄奘が二段に省略してもかまわないと判断した理由をここで考えてみるべきでしょう。」(p93-94)
サンスクリット文法では、主格語尾が添えられた二つの語が併置された文というのは、二つの名詞語幹の表示対象が一致していることを示しているのであって、どちらか一方の語尾が主語または述語を表しているのではない、とされています。どういうことかと言いますと、たとえば「色は空性である」という文があると、私たちは通常、「色は」が主語であり、「空性である」が述語であると考えます。これは日本語でも、ほかの大方の言語(例えば英語)でも同じです。
しかし、サンスクリット文法によれば、「色」という語と「空性」という語が主格語尾をもって併置されている場合、これはそれぞれの語の表示対象が同一であることを示している文であるとみなすので、この際、どちらの語が先にあってもかまわないのです。つまり語順は関係ないのです。そうである以上、「色は空性である」と「空性は色である」は、十分違わず同じことを述べている文だということになります。(p94-96)
「色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない」「色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である」も同じです。これらはすべて「五蘊皆空」とまったく同じことを、ただ「色」について述べた文であると断定せざるを得ないのです。ではなぜ、同じことをそんなに何度も繰り返して述べる必要があったのでしょう。
律蔵大品という初期の仏典には、釈尊が法を説く場合、「私は三度この義を説く」という表現がよく出てきます。また、成道後の釈尊に梵天が脱法を三度懇請し、それで釈尊は脱法を決意したという話も伝わっています。仏法僧の三宝に帰依するときいう「三帰依文」は今でも三度唱えることになっています。インドでは古くから重要なことを三度繰り返して言うという習慣があったのです。でも、インド人でない玄奘は、二度繰り返せば十分だと思ったのでしょう。それだけのことです。
【漢訳本文】舎利子、是諸法空相。不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明尽、乃至、無老死亦無老死尽、無苦集滅道、無智、亦無得。
【読み下し】舎利子よ、この諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。この故に空の中には色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意なく、色声香味触法なく、眼界なく、ないし意識界なく、無明なく、また無明の尽くることなく、ないし老死なく、また老死の尽くることなく、苦集滅道なく、智なく、また得もなし。
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『般若心経』本段では、実は「五位七十五法」に分類される以前に普及していた「五蘊・十二処・十八界」という分類法がとりあげられています。(p153)
次に「十二縁起」がとりあげられ、無明を根本原因とするダルマの因果系列が示されました。
『般若心経』は四諦八正道を否定しているのではありません。もしそうなら、釈尊の初転法輪を否定してしまうことになります。
『般若心経』が否定しているのは、あくまでもダルマの実在性、それだけなのです。(p169)
まず、この「智」(ジュニャーナ)が般若の智慧(プラジュニャー)ではないことはたしかです。原語のサンスクリットが違いますし、般若の智慧を説いている経で、それを否定していたのでは、それこそ『般若心経』は支離滅裂な経ということになってしまいます。
この「智もなく」は「苦・集・滅・道なく」に続くものですから、八正道の成果としての智慧と解すべきでしょう。もろもろのダルマを結合させるはたらき、すなわちダルマの獲得作用のことを「得」(プラープティ)といい、分離させるはたらきのことを「非得」(アプラープティ)というのです。結局、このようにして観察されるダルマがことごとくさまざまな角度から言及されたことになります。それらがすべて観自在菩薩によって「ない」と伝授されたのです。( p170-172)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

羯諦咒

【漢訳本文】以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
【読み下し】得る所なきをもっての故に、菩提薩垂は般若波羅蜜多によるが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟せり。(p174)
本段冒頭の「得る所なきをもっての故に(以無所得故)」の一句についてですが、わが国の伝統的な訓読の仕方では、この一句はこの段の一部とせず、前の段落の文章に含ませて、「智もなく、得もなし、得る所なきをもっての故に」と読ませています。
しかし、原典には、この一句の前に「この故に」という接続詞がありますから、やはり本段の一部と考えるべきでしょう。( p175)
「プラジュニャー」は「知る」を意味する動詞語根「ジュニャー」に「プラ」という接頭辞がついた語の名詞形です。この接頭辞は「前に」という意味があることから、ほとんどの学者はプラジュニャーを、知識以前の知、すなわち「無分別知」のことだと説明するのですが、そうではなく、この接頭辞「プラ」は、「前方に進める」という意味にとらなくてはなりません。つまり、通常の知を一歩進めた高度な知、または高度な知をもたらす知がプラジュニャーなのです。
決して通常の意識以前の、たとえば動物的あるいは幼児的な、分別のない状態に戻ることではありません。その境地は私たちの視界をはるかに超えてはいたけれども、すべてを包含していたのです。(p180-181)
「心に罣礙なし」について説明します。この「心」の原語は「チッタ」です。経題の「心」(フリダヤ)とは別で、これこそ私たち人間の内面の心をさす言葉です。アビダルマ論師たちはダルマを分類して最終的に「五位七十五法」という体系にまとめあげたのですが、実に心そのものも一つのダルマにほかなりませんから、心を妨げるものもなければ、妨げられるもの(心)もないということになるのです。(p182-184)
いかなる恐怖も、その原因が何であれ、心から生じるといえるでしょう。
『般若心経』は「心の大切さ」を説く経などでは全然なくて、むしろその反対に、心というようなものはないのだ、ないということが観察できるレベルがあるのだ、ということを説いている、それこそ恐るべき経典なのです。(p185)
次の一文、一切の「顛倒夢想を遠離して」は、「ない」と観察されるダルマを「ある」と錯誤しているレベルに対して、きっぱりと「ない」といっているのです。
最後の句、「究竟涅槃」は、伝統的には「涅槃を究竟せり」と訓読します。
「涅槃」という言葉は、普通は次のように説明されています。「もとは吹き消すこと、吹き消した状態を意味するが、仏教では燃え盛る煩悩の火を吹き消して、悟りの智慧を獲得した境地をいう」(『佛教大事典』小学館)。
なぜ上記の事典ないし辞典のような説明がなされているかというと、「ニルヴァーナ」の語源が、「(風などが)吹く」という意味の動詞語根「ヴァー」から派生した名詞だと考えられているからです。(p186-189)
外国のパーリ語研究者の間では、「ニルヴァーナ」の語根は「ヴァー」ではなく、「ヴリ(覆う)」であろうと考えられています(パーリ聖典協会編『パーリ語(-英語)辞典』参照)。空海は『般若心経秘鍵』の中で、「妨げのない自由な境地が涅槃に入るということである(無礙離障は入涅槃の義)」と解説しています。空海は明らかに原語「ニルヴァーナ」の語根は「ヴリ」と考えていたと思われます。
空海の解釈によりますと、「心に罣礙なし」という前の文と脈絡がぴたっと合う、ということにお気づきでしょうか。「覆いのない、妨げのない状態」が涅槃なのです。そのような状態まで「ない」としてしまえば、『般若心経』はまるで意味不明の経典になってしまうでしょう。
本段で涅槃はしっかりと肯定されています。このことからも『般若心経』は何でもかんでも、「空」といって否定しているのではないことがお分かりいただけるでしょう。(p191-192)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

『般若心経』で説かれる「般若の智慧」を否定するとなれば、この経典自体が矛盾だらけということになってしまうだろう。しかし、禅問答のような表現を好む人がいるのも事実だ。特に、『般若心経』が「般若、般若……」と繰り返し「空」の智慧を強調しながら、最終的にはその重要な智慧すらも存在しないと説明する学者がいることには驚かされる。だが、こうした奇抜な解釈は、意外にも伝統的に根強い支持を持っているものだ。

【漢訳本文】三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
【読み下し】三世の諸仏は般若波羅蜜多によるが故に阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。(p194)
本段の趣旨は、「さとれるものは般若波羅蜜多による」ということにあります。いったい釈尊をはじめとする諸仏がさとりを開いたのは般若波羅蜜多によるなどということは、初期のいかなる仏典にも記されていないことでした。しかし、大乗の菩薩たちは、従来の伝承を見直し、釈尊の教えの真意は何であったかと追及し、大胆にも、仏の崇高なさとりの境地さえも、実は般若波羅蜜多によるのであると確信し、ここに般若波羅蜜多を高々と賞揚する一巻の経典が誕生したのです。(p196)
【漢訳本文】故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故、説般若波羅蜜多呪。即説呪曰、掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、薩婆訶。般若心経。(p214)
【読み下し】故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり。これ無等等呪なり。よく一切の苦を除き、真実なり、虚しからざる故に、般若波羅蜜多の呪を説く。すなわち呪を説いていわく。
掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、薩婆訶。般若心経。

本段は「故に知るべし」という言葉で始まります。『般若心経』全段の中で、ここだけが強い命令口調になっています。観自在菩薩が舎利子に最終的な伝授を行う最も重要な場面です。
- 大神呪 = マハー・マントラ(偉大なる真言)
- 大明呪 = マハー・ヴィディヤー・マントラ(偉大なる明知の真言)
- 無上呪 = アヌッタラ・マントラ(この上ない真言)
- 無等等呪 = アサマサマ・マントラ(比類なき真言)
( p215-217)
漢訳本文は、「能除一切苦、真実不虚故、説般若波羅蜜多呪」と続きます。
この箇所は伝統的には、「よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず。故に般若波羅蜜多の呪を説く」と読み下します。現代の解説書でもこちらの読み方をするほうが多いようです。(p221-222)
「故に」という語を次の「般若波羅蜜多の呪を説く」にかけて読んでしまうのだと思われますが、原典では、「偽りがないから、真実である」という文構成になっています。「故に般若波羅蜜多の呪を説く」という読み方はただしくありません。
「真実」にあたるサンスクリットは「サトヤ」ですが、ここでも「サトヤ」は、真理といった抽象的なものではなく、「確実な、信頼の置ける、効き目のあるもの」を意味しています。むろんこれは般若波羅蜜多のマントラのことをさしています。
次の「不虚」にあたるサンスクリットの「アミティヤー」は、「矛盾していない」「嘘偽りでない」を意味します。
かくして、この本文全体は、「般若波羅蜜多のマントラは、すべての苦を鎮める、確実な、信頼の置ける、効き目のある言葉である。なぜならば、矛盾なく、嘘偽りのないものだから」ということを述べていると、ご理解いただけるでしょう。
現行の三つの訳し方
一つは「ガテー」(羯諦)を、「往く」を意味する動詞の過去完了形の男性名詞「ガタ」の単数格とみて、「往けるとき」と解釈する仕方です。
「往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー」
もう一つは、「ガテー」(羯諦)をやはり「往く」を意味する動詞から派生した、女性名詞の「ガター」または「ガティ」の単数呼格とみて、「往ける者よ」と解釈する仕方です。
「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。」
実はもう一つ、代表的な訳し方があります。それは渡邊照宏博士の訳です。
「到れり、到れり、彼岸に到れり、彼岸に到着せり、悟りに。めでたし。」(p229-230)
これは、「ガテー」(羯諦)を、「往く」を意味する動詞の過去完了形の男性名詞「ガタ」の単数主格と解釈したものだと思われます。正規のサンスクリット文法では、こうした解釈はできません。これは原文を、古代東部インド語(釈尊の時代に用いられていたと推定される古語)とみて、その文法を適用して解読した結果です。
結論を言いますと、これはだれかがどこかへ往くとか往かないとかいうことではなく、このマントラは最後の「姿婆訶」を除いて、一言一句、すべて「般若波羅蜜多」を言い換えたものです。あくまでも般若波羅蜜多を称えた、「般若波羅蜜多のマントラ」なのです。
ただ、最後の「姿婆訶」(スヴァーハー)だけは別で、これは供物を捧げる際に唱える定型的な終句として用いられてきたもので、「成就あれ!」というほどの意味の言葉です。(p232-233)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

仏母

諸仏がさとりを得るのは般若の力に依るのであるということから、大乗仏教徒は般若波羅蜜多を、仏母として尊び崇め、その絶大な功徳を宣揚したのです。このことは玄奘訳『大般若波羅蜜多経』六百巻はもとより、羅什訳『大品般若経』によっても確認できることです。ならば、般若波羅蜜多を仏母として称えるマントラが『般若心経』に掲げられていても何らふしぎなことではありません。そうであるなら、
母よ、母よ、般若波羅蜜多なる母よ、どうかさとりをもたらしたまえ——。」
マントラの全文の意味はおよそこのようなものでしょう。釈尊ご生誕の聖地ルンビニーの守護神は、生母マーやー(摩耶)夫人です。
今はネパール領のその現地名「ルンミンデーイ」の原意は、「失われた女神」です。数百年の時を経て、仏陀の母は「般若波羅蜜多」として祀り、大乗仏教の原動力となったのでした。

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

自性空:般若心経の空

漢訳本文:観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
読み下し:観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ぜし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度せり。
原典和訳:高貴なる観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の修行を実践しているとき、五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた

大乗仏教の先駆をなした経典が、般若波羅蜜多経です。般若経、と略して呼ばれますが、この名称の経典は実にたくさんあって、なんと紀元前後から六百年の長きにわたって経々と生み出されてきました。その集大成が、玄奘の漢訳した『大般若波羅蜜多経』六百巻です。大乗仏教徒にとって、般若波羅蜜多は、新しい仏教運動のスローガンであり、いわば合い言葉でした。(p59)
それだけではありません。諸仏がさとりを得るのは般若(智慧)の力に依るのであるということから、般若波羅蜜多そのものが神格化されるようになりました。大乗仏教徒は般若波羅蜜多を、諸仏を生む母、すなわち「仏母」として尊び崇め、その絶大な功徳を宣揚したのです。
般若波羅蜜多が女尊とされたのは、原語「プラジュニャー・パーラミター」が女性名詞だったからです。(p60-61)
「般若心経」も、般若経の一つであることは言うまでもありません。般若波羅蜜多を主題とする経典です。「般若心経」は般若波羅蜜多のマントラを説いた経であると先に申し上げましたが、その「羯諦、羯諦……」のマントラは、仏母としての般若波羅蜜多に対する祈りの言葉だったのです。
玄奘訳の「般若心経」には「仏母」という言葉は用いられていませんので、読者の中にはまだ首をかしげる方もいるかもしれませんが、後代の施護訳の経題は「仏説仏母般若波羅蜜多経」となっていて、「聖仏母」という言葉を冠して般若波羅蜜多が仏母であることを明確に示しています。チベット版の「般若心経」でも、「バガヴァティー(女尊=仏母)たるプラジュニャー・パーラミターのフリダヤ」とサンスクリットの経題が明記されていて、そのことが確認できます。
それは後代の解釈ではないかと思われる方もいるかもしれませんが、「般若波羅蜜多はこれ諸仏の母」ということは他の般若経では既に頻繁に述べられていることなのです(玄奘訳「大般若波羅蜜多経」第305~308巻、羅什訳「大品般若経」第14巻・第27巻参照)。
読者の皆さんには意外でしょうが、「般若心経」は、仏母たる般若波羅蜜多を本尊とする経典なのです。
「般若心経」は小品ながらも、般若経の中でも特異な地位を占め、独立した一巻の経典として重んじられてきました。
実は、「般若心経」は般若経の集大成である「大般若波羅蜜多経」六百巻の中に含まれていません。「般若心経」だけがいわば除外された格好になっていて、その理由は今ひとつ定かではありませんが、それほど特別な経典とみなされていたということなのでしょう。(p63)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

深般若波羅蜜多と六波羅蜜

ところで、なぜ「(深遠な)般若波羅蜜多」というのでしょうか。この「深」の一語は何を意味しているのでしょう。この「深」にあたるサンスクリットの「ガンビーラ」は「甚だ深い」とか「尋常ではない」を意味します。深般若波羅蜜多とは、要するに普通の般若波羅蜜多ではないということです。すなわち大乗仏教において、ただ般若波羅蜜多というと、これは菩薩の実践徳目(六波羅蜜)のことをさします。
しかし、ここでは普通に考えられているような徳目の中の一つという意味合いではないということを強調するために「深」と形容されているのです。明らかに普通に考えられている般若波羅蜜多とは一線を画した「尋常ではない」ものです。そのために「深般若波羅蜜多」と言っているのですから、ほとんどの解説書がこの字義を無視して般若波羅蜜多の六の実践徳目の説明に終始しているのは見当違いと言わざるをえません。(p63〜65)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

色即是空

【漢訳本文】舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是。
【読み下し】舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色すなわちこれ空、空すなわちこれ色なり。受想行識も、またまたかくのごとし。
【原典和訳】シャーリプトラよ、ここにおいて、色は空性であり、空性は色である。色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない。色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である。受・想・行・識についてもまったく同様である。(p90)

本段は「五蘊皆空」を言い換えたものですから、「色即是空」は、「五蘊皆空」とまったく同じことを「色」について述べているのです。
しかし、サンスクリットに精通したインド人ならば、「色は空性である」という、このサンスクリットの原文を見たら、これは文法的に成立しない文だと必ず言うでしょう。原語の「シューニャター」は抽象名詞でして、「空なること」を意味し、「空なるもの」を意味する「シューニャ」ではないのです。
なぜこんな破格の構文が用いられているかということです。少なくとも、現存するサンスクリット写本のすべては、「シューニャター(空性)」の語を用いているのです。やはりこの語でなければならなかったのでしょう。(p98-100)
一見破格の構文に思われますが、「シューニャター(空性)」という言葉を用いることによって、レベルの差異を明らかにする仕組みが設けられていたのです。(p101)
サンスクリットの名詞はすべて何らかの動詞(正確には、動詞の語根)から派生しているのですが、この「シューニャ(空なるもの)」という語は「膨らむ」という意味の動詞から派生した名詞で、「膨らんだ状態」というのが原義です。ちょうどシャボン玉が膨らんだような状態をさします。
さらに観察を深めると、膨らんだシャボン玉がはじけて消えてしまうように、あらゆる枠付けが消えてしまい、まったく開放された広がりが現出するでしょう。実は「空」の最も本質的な意味は、こうした状態、つまりまったくの開放的な広がりです。すなわち、完全に開放された境地に至るということです。(p106-107)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

「色即是空⇒色=空」/「氷即是水⇒氷=水」のようなかんじ。
般若心経のいう「空」とはサーンキヤ哲学でいう「自性」という意味での「空」だということ。(竹下雅敏説)

サーンキヤ哲学における「自性(スヴァバーヴァ、svabhāva)」とは
物質世界の根源である「プラクリティ(prakriti)」の本質的な性質を指す。サーンキヤ哲学は二元論を基礎としており、「プルシャ(purusha、純粋な意識)」と「プラクリティ(物質的な根源)」という二つの根本的な実体が存在すると考える。
プラクリティは三つの「グナ(guna、性質)」、すなわちサットヴァ(sattva、純粋性)、ラジャス(rajas、活動性)、タマス(tamas、惰性)から構成されている。これらのグナの組み合わせと変化によって、宇宙のあらゆる物質的現象が生じる。
「自性」は、このプラクリティが持つ固有の性質や本質のことを指す。具体的には、プラクリティに由来するあらゆる存在や現象が、それぞれ固有の性質を持つと考えられている。つまり、自性とは、物質的な存在がその根本的な性質に基づいて持っている固有の特徴であり、サーンキヤ哲学ではこの自性を持つことが物質的現象の基礎となる。
このように、サーンキヤ哲学における「自性」は、物質の本質や性質を説明するための概念であり、それが様々な形で現れることで物質世界が構成されているとされる。

諸法空相

【漢訳本文】舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
【読み下し】舎利子よ、この諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
【原典和訳】シャーリプトラよ。ここにおいて、存在するものはすべて空性を特徴としていて、生じたというものではなく、滅したというものではなく、汚れたものではなく、汚れを離れたものでもなく、足りなくなることもなく、満たされることもない。(p114)
律蔵大品「大犍度」におさめられている「五比丘篇」は、釈尊がサールナートで五人の比丘に対して行った最初の説法(初転法輪)の様子を伝えていますが、そこでは、五蘊について次に引用するように述べている箇所があります。
「比丘らよ。このことを考えてみよ。色は恒常であろうか、それとも無常であろうか」
「無常です」
「では、無常なるものは苦であろうか、それとも楽であろうか」
「苦です」
「無常にして苦、そして変空するもの(ダンマ)を、これは私のものである、これは私である、これは私の自我である、とみなすことは妥当であろうか」(p127–129)
「いえ、違います。」(以下、受・想・行・識についても同じ説論が繰り返される)
「比丘らよ。(五蘊は、私のものではない、私はでない、私の自我ではないと)このように正しく観察するならば、高貴なる弟子は、色を厭い、受を厭い、想を厭い、行を厭い、識を厭う。厭えば、離貪し、欲を離れて解脱する」
ここで最も重要なことは、釈尊の瞑想において顕現した諸法は、瞑想の中で滅尽されるべきものであったということです。諸法は瞑想の中において初めて顕現するものですが、最終的に否定されなければならないものだったのです。
原典では「ここにおいて、シャーリプトラよ」といい、ここにおいて(イハ)という言葉を添えています。(p147)
【漢訳本文】是故空中、無色無受想行識、無限耳鼻舌身意、無色声香味触法、無限界乃至無意識界、無無明亦無無明尽、乃至、無老死亦無老死尽、無苦集滅道、無智、亦無得。
【読み下し】この故に空の中には色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意なく、色声香味触法なく、眼界なく、ないし意識界なく、無明なく、また無明の尽くることなく、ないし老死なく、また老死の尽くることなく、苦集滅道なく、智なく、また得もなし。
本段の意旨は、「空の中には何もない」ということですが、問題は何がないかということです。言うまでもなく、ここに列挙されているのはすべて「自己という経験主体を構成する要素として瞑想の中に顕現して存在するもの」としてのダルマ(諸法)です。(p150–151)
【漢訳本文】以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
【原典和訳】この故に、ここにはいかなるものもないから、菩薩は般若波羅蜜多を拠り所として、心の妨げなく安住している。心の妨げがないので、恐れがなく、ないものをあると考えるような見方を超越していて、まったく開放された境地でいる。過去・現在・未来の三世に出現するすべての仏は般若波羅蜜多を拠り所として、無上の完全なさとりを成就している。(p174, 194)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

遠離一切顛倒夢想

「遠離一切顛倒夢想」という言葉は、文字通りには「すべての誤った考えや幻想から遠ざかる」という意味だが、ここでの説明では特に「自性が存在しない」という大乗仏教の考え方から離れることを指している。
大乗仏教では、「自性がない」、つまり「すべてのものには固定された本質がない」ということが「空」の教えとして重要視されている。しかし、この解釈では、その「自性がない」という考え自体が誤ったものであり、その誤りを捨て去ることで、真に解放された状態に至るとされている。
つまり、「遠離一切顛倒夢想」というのは、大乗仏教が説く「自性がない」という考え方を誤りとして捉え、それを超越することを意味しているということになる。これは、一般的な大乗仏教の教えとは正反対の解釈となっている。(竹下雅敏説)

「般若心経」伝授の逸話

今さらこんなことを言うと驚かれるかもしれませんが、『般若心経』は経典としてはごく短いものながら、実は出所の異なるいくつかの文が巧みに編集されて一巻の経典として成立したものなのです。
最初期の般若経として、八千頌からなる「小品般若経」があり、次いで、より大部の二万五千頌からなる「大品般若経」が誕生しました。
実は、『般若心経』の大部分は、この「大品般若経」の中から抽出された文で構成されているのです。
本文の最初の部分の「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」と、最後の部分の「故、説般若波羅蜜多咒。即説咒曰。羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提、薩婆訶。」を除く全文が、「大品般若経」から抽出されたかたちで構成されているということになります。(p197-198)
前世紀の初頭、敦煌より出土した経典の中に、全文が音写語で書かれた『般若心経』がありました。玄奘の弟子の慧恩大師基による序文が添えられていて、その中に次のような逸話が記されています。
三蔵法師玄奘がインドに向う途上、空慧寺の道場で病に苦しむ僧がいて看病をしたところ、『般若心経』を授かり、この経を誦してゆけば災難から逃れられると教えられた。果たして無事にインドに到着した玄奘が目指す地であるナーランダー寺に赴くと、そこになんと、かの病僧がいた。驚く玄奘に、私は観自在菩薩であると告げて姿を消したというのです。
この『梵本般若心経』の冒頭には「この経は玄奘が観自在菩薩から親授された梵本(サンスクリット本)なので渝色しない」と記されています。大切な原典であるから、いかなる手も加えず、漢訳もせず、原書に忠実に写しておく、という意味です。(p205)
この逸話が物語っているのは玄奘にとって、『般若心経』は格別尊重すべき経典であったということでしょう。玄奘がインドへの旅路において『般若心経』を誦えていったという伝承は古くからありました。玄奘の弟子慧立が書き、さらに同じ弟子の彦琛が、書き加えた『大慈恩寺三蔵法師伝』にも、そのことが記されています。
玄奘が観自在菩薩から『般若心経』を親授されたという逸話も、現代人の観点から実際にはありえないと言うのは簡単ですが、果たして荒唐無稽な話と断定してしまってよいものでしょうか。この尊い経の原典を入手しえたのも、決してたやすく単に人から人へと手渡されたというようなことではなく、そこに人知を超えた大きな力の存在を思わざるを得ない、そのような敬虔な気持ちが根底にあって、この信念を後世に伝えようとした決意の表明のようにも思えるのです。(p210)

マントラ

【漢訳本文】故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故、説般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提、薩婆訶。般若心経。
【原典和訳】それ故に知るべきである。般若波羅蜜多の大いなるマントラ、大いなる明知のマントラ、この上ないマントラ、比類なきマントラは、すべての苦を鎮めるものであり、偽りがないから、真実である。般若波羅蜜多の修行で唱えるマントラは、次の通りである。
ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー。
以上で、般若波羅蜜多のマントラ、提示し終わる。(p214)
マントラに関して最も重要なことは、マントラは特定の儀礼や瞑想修行において師より弟子に伝授される言葉で、そこで用いられて(唱えられて)、はじめてマントラの名にあたいするものになるということです。つまり、例えば本に印刷されている「羯諦、羯諦……」の文字は、それだけではマントラでも何でもないのです。
たとえマントラの字句の意味を理解したとしても、それだけではマントラを会得したことにはならず、また当然、その字句と意味をいくら公開しても、マントラの秘密性または神秘性をそこなうことにはならないのです。(p226-227)
経典の作者がいないように、マントラの作者もいません。よって、「作者の意図」は探りようもありません。ひとつとして起源の分かるマントラもありません。(p228)
『般若心経』は「仏母」たる般若波羅蜜多を本尊とする経典だと申しあげました。ならば、般若波羅蜜多を仏母として称えるマントラが『般若心経』に掲げられていても何らふしぎなことではありません。そうであるなら、
『母よ、母よ、般若波羅蜜多なる母よ、どうかさとりをもたらしたまえ——。』
マントラの全文の意味はおよそこのようなものでしょう。釈尊ご生誕の聖地ルンビニーの守護神は、生母マーヤー(摩耶)夫人です。釈尊をこの世に産んでわずか七日で没した母マーヤーの名は「幻影」を意味します。今はネパール領のその現地名「ルンミンデイ」の原意は、「失われた女神」です。数百年の時を経て、仏陀の母は「般若波羅蜜多」として祀り、大乗仏教の原動力となったのでした。(p232-233)

「真釈 般若心経」宮坂宥洪/角川ソフィア文庫

参考文献


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