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お返しの記事(読書と書物について)

3588文字・34min

ぼくは基本、パソコンもケータイも画面もディスプレイカラーを反転させています。これは京都に住んでいた時分の設計士の友人に教わりました。設計士はいまはデスクでCAD作業です。立体の橋、教会、タワー、図書館、家などを無数の線で白地に黒線で書き続ける。やはり目が疲れるそうです。

執筆も基本はおなじです。
僕はディスプレイを黒地にして文字は柔らかいオレンジや青色などにしています。

さて、野原綾さんの下記の記事にて

 ぼくのnoteでは村上春樹さんの作品の感想は一度も書いたことはありません。ですがぼくの記事に「村上春樹」はよく登場します。

では、ここに村上春樹さんご本人に登場してもらいましょう。

「こんにちは、村上春樹です。ゴホン」

少しだけ喋って、袖に去っていきました。

これは僕の個人的な読書に問題がある。

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ここで読書と書物(本)について簡単に書きます。

筒井康隆先生の書籍のどこかにあったのですが、うろ覚えです。それでもここに書いてみます

読書にはいろんな読書がある、理解したいと読む読書から、不眠症の人間が睡眠導入儀式のための読書、社会が話題だから読む、好きな彼氏が読んでいるから読む、母から父から強制的に読めと言われた、学校の推薦図書だから、夏休みの読書感想文の課題図書だから、noteで読書感想を発表したい、小説はどのようにできているのか分解したい、僕の好きな作家はいったいどのようにしてペンを持ち、あるいはキーボードを叩き、深呼吸をして、ときに散歩をしたり、このシーンはいま流行りの変顔をまるごとワンシーンにしているな、がっはっは。とか作品を描いた筆者の執筆シーンを想像するために読むなど。

読書は読み手おのおのの目的によってなされます。

映画館もそうですね、営業マンが寝るために入るスカラ座って可能性もある。本もそうです。棚に飾ってあるだけだとか、百回読み返しても脚立がわりにするひとだとか。

筒井康隆先生は読書には三段階の深さがある。と言っています。

⑴文字を追う(社会が読んでいる。友達との共通点で。現実逃避)
⑵理解しようと読む(自己発見、じぶんの改革のため)
⑶筆者になろうと読む(同業者がすること。建築家も画家もおなじ)

その作品はどのように作られているか?
これは単なる読者と同業者では違うし、また経験やテクニックでも変わってくる。
野原さん(苗字だけにします)は村上春樹さんに関して以下のことを思いました。

⑴「 なぜ、簡単なことを難しく書くのか 」

⑵「 読んだ人が、意味のない万能感を身に付ける気がする 」

⑴はこれは個人の感想ですが、村上春樹さんはいわば令和・平成で言う「夏目漱石」のポジションです。村上春樹の書籍がでれば社会事件となり、秋にはマスコミと大型書店のバックヤードがざわつき「ノーベル賞だーい」やいのやいの。と騒ぎたてます。新聞紙面に載った村上春樹の一言は社会に影響を与えます。村上春樹さんは現代の夏目漱石そのものです。

ということで、村上春樹さんの日本文学の文体、その構造は社会で語られ尽くされています。同時期に活躍したダブル村上と称された村上龍さんの小説をよく並べられます。一言で言います。

村上龍はむずかしい言葉を使ってシンプルに描く。
村上春樹は平易なことばを使って難解な世界を構築する。

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⑴「 なぜ、簡単なことを難しく書くのか 」


彼女の問いに簡潔に答えると、

村上春樹さんは簡単なことを小難しくチマチマと思索をするのがだいすきな作家なんです。それだけ。かれには簡単な事象をことさら難しく解釈しているつもりはないですし、じぶんで難しいことを書いている。などと言う自覚もありません。かれなりの独自の考えを「この原稿なら出せるな」と言うレベルまで原稿(文章)を磨いているだけです。村上春樹さんは登場人物が着ている服装やその色やアクセサリーはどのようなものを身につけていたか、などをきちんと書きます。そう言う作家です。スティーブン・キングは「女子高生なら女子高生でいいじゃないか、服なんて描写する必要があるか? 読者が勝手に想像するだろうに」それはスティーブン・キングの書き方です。「巧みな描写はいずれの場合も、選ばれた細部が言葉少なに多くを語っている」(スティーブン・キング「小説作法」)

ひとつ。村上春樹さんの文章にはつねに「世界ってさ。目に見えてるほど簡単にはできていないんじゃないかな? 」っていう洞察(あるいは監視)の目が光っているのが垣間見えます(文学論になりそうなのでここで割愛)。

ちなみに、村上春樹さんの小説の構造それ自体はとても重層的です。その世界には幾重ものレイヤー(層)があり、巨大な影が主人公を小突きまわします。主人公はよくこう言います。
「ぼくはこれからどこへいけばいいのだろうか? 」
「ぼくはじぶんがあちこちから小突き回されるのが嫌なんだ」
では主人公を小突きまわしているのはいったい誰? 村上春樹さんの小説にはよく陰謀論が使われます。ですが、その小説の世界を牛耳る黒幕は舞台に登場しない。あるいは死にかけていて小説の内部にでてこない。笑。でも蒼井は読んでこう思う。
「この作品を描いているのって村上春樹だよね? 」
って突っこみながら読み進みます。
ある小説(1Q84)では、とつぜん、番犬のシェパードがある日、腹の内臓から捲れて死ぬ事件が起こる。原因は書かれていない。ふたつほど伏線であるが…… その回収としては描かれていないようだ。謎のシーンだ。でも、
「シェパードを殺したのは村上春樹(筆者)の手だよね? 」
「メタ文学を書いているのかい? 村上春樹さん」
このことは、三読目にふと、気がつきました(これはぼくなりの解釈でぼく独自の作品の楽しみ方です)。

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⑵「 読んだ人が、意味のない万能感を身に付ける気がする 」

これは簡単です。ぼくは彼女にこの一文を書かせた村上春樹さんは恨めしいほど羨ましい! これは作家が最も欲しい腕(技術)を村上春樹さんが備えている証拠ですね。ことばだけで読み手に力を沸き立たせる。

それは村上春樹さんの言葉に説得力があるからです。

読者がその小説世界(いい小説だったか悪い小説だったかは別にして)に没入していた証です。それこそが小説です。もし村上春樹さんが野原さんの記事を読んだら「ぐへっへっへ。してやったり」とまでは思わないかもしれませんが。嬉しいと感じるはずです。作家冥利に尽きますね。

言葉は誰でも使います。ペテン師と小説家は言葉を使うと言う点においてはおなじ種族です。社会の枠外で生きると言う意味でもおなじです。

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ほんの少し村上春樹論を語る。


ぼくは村上春樹さんの短編は詳しくありません。ですが長編は五度づつ読んでます。ムック本のように語りたくないので、ムック本よりさらにガチャピンらしく語りたいと思います。

村上春樹さんは処女作「風の歌を聞け」でこう語っています。上の二点のみ理解してればオッケー。

⑴この世に完全な文章も小説もない。
(⬆︎反語で汲めば、だからこそ、作家人生をかけて書いている)
⑵この世には距離をはかるモノサシが必要だ。
⑶テーマは「源氏物語」の本歌取り

この二つがその後の村上春樹の作家人生を決めてます。

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⑴この世に完全な文章も小説もない。

⑴村上春樹さんがえがく中・長編にはほとんどかならず「永久機関」なる言葉がでてくる。これは何を意味するのか?
「小説はどんな細密に完璧に描いたとて、本物の世界のようには描けない。それは完璧に見えるだけだ」=「だって文字で構築された世界だもの」=「読者の頭のなかのイメージですよ」

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⑵この世には距離をはかるモノサシが必要だ。

⑵これは世界観というよりも、その文体に顕著に顕ています。
筆者の文字との距離感。キャラクター同士(人間)の距離感。読者との距離感。
ぼくの個人的に覚えているところです。

 ぱんぱん。と尻を叩いた。

とか、

 もぐもぐ。

この一文でぼくは唸っちゃう。

あとは会話そのものなんだけど、これは同時代の人間しか味わえなかった衝撃。村上春樹が時代を作った業績そのものかもしれません。

誤解を恐れずにかきます。
それまでの日本文学ではいわゆる、純文学の世界でいえば書き言葉の
美しさ、谷崎潤一郎や芥川龍之介や三島由紀夫などのいろいろな作家固有の文体の美しさがすごい!とされてきた。

ある日、村上春樹さんの文章が新人賞をとった。

出版の業界人たち、編集者たちは「これだよ! おれたちはこういう軽い文章が読みたかったんだよ! 」って事件になった。文壇で書かれた文芸の文章ってさあ重いんだよ。読みづらいしよ、頭が疲れるんだよ。でも、すげえ、この村上春樹はしゃべるみてえに語ってるぜ。ってことです。

もしかしたら、あの文体は、いまでいうラノベ感覚だったのかもしれません。

これは先輩がいまして、田辺聖子さん「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」芥川賞だったか? で日本中に衝撃を与えました。だから当時は、小説の内容ってのは二の次だったんですね。村上春樹さんは人気が出てから、研究者たちがこぞって読み始めた。ってことですね。
村上春樹さんの小説で、

やれやれ。

ってのは、ジョジョの奇妙な冒険の主人公がよく使います。

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⑶は割愛。


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