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読書まとめ『教養としてのラテン語の授業』→ラテン語雑学と教育論が濃い自己啓発本

『教養としての「ラテン語の授業」古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』ハン・ドンイル


一言で言うと

ラテン語雑学と教育論が濃い自己啓発本



概要

古生物の本をいくつか読む過程で、学名に使われるラテン語に興味を持ち、読んでみました。ラテン語が多少わかれば、学名からどんな生物か想像できるようになるかも、と思った次第です。

読んでみた結論、ラテン語は本一冊読んでなんとかなるようなライトなモノではなかったです。拡張高く精緻を極めた文法は、裏を返せば覚える量が多くて習熟が難しいということ。現在/過去/未来、能動態/受動態、男性/女性/中性、単数/複数などさまざまな要素で動詞自体が変化します。英語と同じ意味の動詞”do”の活用だけで160以上にも及び、見開き1ページの表になっているのは一見の価値あり。

それほどまでに難しいラテン語を学ぶメリットは、論理的思考の枠組みを習得できることだと述べられています。精緻で数学的な言語なので、物事を体系的に理解する能力が養われます。本書では「思考の本棚をつくる」といった表現がされていました。

本書では、ラテン語を通して西洋文明が幅広く解説されており、現代にまでつながる文化の源流に触れることができます。歴史や宗教といった大きな流れから、手紙の書き方や年齢別の呼称(子ども・若者・老人)などの生活感のあふれる情報まで、歴史書かつ雑学本のような内容です。


「教養としてのラテン語」と邦題がついていますが、教養本というよりはメンタル系の自己啓発本だと感じました。ラテン語の単語や文法の説明は少なめで、ラテン語を学びたくて本書を読むと肩透かしをくらいます。ラテン語自体を教養として学ぶのではなく、世界を知り、他者を思い、自分を考える、その媒介としてのラテン語ですね。英題は、シンプルにLatin Lessons。教養ブームに乗ろうとしてなのかわかりませんが、この邦題は本質を見失っている感がありました。

その一方で、イタリア留学してバチカン裁判所で東アジア初の弁護士になった著者のエピソードが豊富に紹介されています。各章末には、教会・寺社の門前に掲げられている感じの、ありがたい詩や問いかけが載っています。教養というより、説教なのかも。言葉の壁や国籍差別、難しい勉強などを乗り越える人生観・道徳論に触れたい人にはオススメできます。あとは、東アジア型(具体的には韓国ですが、日本も似たり寄ったり)の知識詰め込み教育に対する批判・教育論も多めです。


ヨーロッパにおけるラテン語は、日本の古文の立ち位置と似ていますね。現在でも、イタリアの高卒認定試験では、文系だと古典語能力(ラテン語・ギリシャ語)の科目が必須だそうです。確かに、ラテン語や日本語の古文は、現代に話者がいないので、覚えても使う機会はありません。しかし、現代の言語とつながりがあったり、過去の文化や歴史を理解するために役に立ったりします。

例えば、習慣を意味する英語”habit”の語源であるラテン語”habitus”には、聖職者が着る修道衣の意味もあります。修道士は毎日決められた時刻になったら同じこと(祈りや休憩)をするので、転じて習慣を指すようになったんだとか。人々が統一された時刻に合わせて行動するようになったのは、産業革命以後と言われています。ラテン語の時代においては、時刻と結びついた習慣は、非聖職者からすると異質なモノに見えたのかも?などと思いを巡らせました。


本稿では、本書を自己啓発本として捉えた上で、印象に残ったことを3点でまとめます。



① 自己理解を深める手段として学ぶ

学びとは、自分だけの歩き方や動き方を知ること、と表現されていました。どんなことに興味があり、どんなときに苦痛を感じるのか、自己理解のための手段ですね。そのために、学校は、若者が自分自身に関心を持ち、考察する場であるべきだとも主張されています。

学んで知識が増えることで、自己・世界の解像度が上がります。我々は、自分が知っている枠組みの中でしか考えることができません。著者は、イタリア留学中に通学路として使っていた道がカエサルが暗殺された場所だったと知ったとき、知識がなければ歴史的遺跡でもスルーしてしまうことに気づいたそうです。知識を得ることで世界の見方が変わる、おもしろいエピソードでした。

私も古生物の学習を通して興味の幅が広がり、ラテン語の奥深さをも知ることができました。もちろん現生生物にもラテン語の学名はつけられていますが、古生物のように学名で呼んだりはしないですからね。世界の解像度が上がり、見方が変わった経験のひとつだと思います。



② 他者を受け入れるために、言語を正しく操る

他者とコミュニケーションを取るために、言語の正しい理解は必要不可欠です。精緻な文法を持つラテン語は、コミュニケーションを正確に取る用途に適していると言えます。ラテン語で書かれていると、それだけで格調高い感じに見えますよね。著者が大学で行ったラテン語の授業でも、「なんかカッコイイから」といった理由で受講する学生が多かったそうです。

ただ、言語の目的は他者とのコミュニケーションであり、お互いが理解できる言葉を使うことが重要です。文法が優れているとか格調高いとかは副次的な要素。自分の考えを表現できて、相手の表現を理解できることが言語の本質です。

情報を伝える能力だけでなく、情報を受け入れる寛容さも必要です。他者とコミュニケーションを取って傷つくこともありますが、これは自分の弱さや足りないところがわかって、独りで勝手に苦しんでいるのだ、と表現されています。だから、傷つくことを恐れるのは、自分を知るのを恐れることと同じ。自分の弱さを受け入れることが、コミュニケーションのトラブルを減らすのかも、と思いました。

また、本書には、韓国人著者の祖国の教育に対する嘆き・提言がしばしば出てきます。韓国の受験戦争や上下関係の厳しさは、私も聞いたことがあります。程度の差はあるにせよ、韓国の隣国である日本も似た状況にあると思います。言語を知って他の国・地域を理解することで、自分の国・地域の良いところ・そうでないところを再認識できると感じました。



③ 他者に知識を分け与える知性人であれ

現代は、勉強したことを他の人たちに分け与える時代だと評されています。知識を多く持っている人は知識人、知識を分け与えることができる人は知性人、とも表現されていました。「分け与える」を「世の中のために活用する」と捉え直すと、知識(インプット)だけでなく、行動(アウトプット)の重要性を説いているとも考えられます。

Homines, dum docent, discunt.

人は教えている間に、学ぶ。ラテン語で書くと高尚感すごいですね。ローマの哲学者・セネカの言葉だそうです。他者に教えることは、他者へのアウトプットでありながら、自分自身への再インプットでもあります。①で考察したとおり、再インプットを通して更なる自己理解にもつながるのではと思います。

著者が考える「真の教育」とは、勉強したくなる動機を与えること。いい映画を見たら、同じ監督の作品を見たり、モチーフになった作品や主題歌を調べたりするような感覚とのことです。受験戦争と揶揄されるような他者との競争ではなく、過去の自分からの成長を実感したり、新しい発見を得たりするもの。この考え方は、親:家庭教育者としても大切にしたい考え方だと感じました。



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いつも図書館で本を借りているので、たまには本屋で新刊を買ってインプット・アウトプットします。