格闘技や武術を学問したい人です。なのに芸術のお勉強してます。信州大学 現代限界芸術研究…

格闘技や武術を学問したい人です。なのに芸術のお勉強してます。信州大学 現代限界芸術研究会を作りました。

最近の記事

(小説)存在しない迷宮

 どこへでもいけるのに、どこへもいけない気分のまま、町をさまよっている。午後二時、過ぎつつある昼。コンクリートで舗装された道路が、黙って車を走らせている。路地の木々は住人に都合よく剪定されたみじめな姿で立っており、まさしくそれは僕自身のパロディに他ならなかった。  空の青みがもう少しくすんでいたら、ここまでみじめな気持ちになることもなかったのかもしれないが、酷いことに今日もこの町は晴天だった。太陽の光は僕の不在の身体を透過して、影も作らない。ただアスファルトを灼き続けている光

    • マツケンサンバは語らず踊る

      1.マツケンサンバはサンバなのかマツケンサンバⅡを聴いていたときに、ふと思った。 「これ、サンバなのかなあ?」 この「なのかなあ」という不安さを孕んだ語尾には理由がある。チェリッシュ(1973)〈てんとう虫のサンバ〉や郷ひろみ(1981)〈お嫁サンバ〉は全然サンバに聞こえないのだが、〈マツケンサンバⅡ〉はちょっと微妙なラインではないかと思ったのだ。 この件に関して、Wikipediaの「マツケンサンバ」の項目には次のようにある。 タイトルが「サンバ」でありながら音楽的

      • 修論で書いた空手の三様態について

         図書館から借りてきたクロソウスキー、返却期限が迫っているのでさっさと読まねばならない。ただ「~せねばならない」という義務感は深い耽溺と相性が悪く、いまいち読書にノレないので「修論の話でもするか」と思いパソコンを立ち上げた。  僕は卒論に引き続き、修論でも空手について論じた。卒論では沖縄で行われている空手の型について、カイヨワやアンリオの遊び論などを引用しつつ分析したが、修論では沖縄の空手に加え、本土でスポーツ化した伝統派空手、それと大山倍達の創始した極真会館に端を発するフル

        • フーコー『監獄の誕生』とおまけの国語の話~カレーじゃなくて肉じゃが~

          ※この原稿はフーコーの規律・訓練的な権力の話とスポーツ、そして武道の型の話をする予定で書き始めた原稿だったのだけど、修論で使おうと思っていたネタをうっかり書いてしまったので急遽読書論をぶちこんだ、いうなれば「カレーを作ろうとしたけどルーを買い忘れたので途中から肉じゃがにした肉じゃが」みたいな文章です。あんまり粗はさがさないでくださいませ。 フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』のざっくりした要約と、国語とか読書についてさっきまでぼんやり考えていたことです。 ・1.フーコー『

        (小説)存在しない迷宮

        • マツケンサンバは語らず踊る

        • 修論で書いた空手の三様態について

        • フーコー『監獄の誕生』とおまけの国語の話~カレーじゃなくて肉じゃが~

          ヤギとウマ――丘の上で草を食む

          1.ヤギとウマ 先日、市内でヤギを飼っている友人のK君に会った。K君は大学3年の時に「何か面白いことがしたい」といって友人と2人でヤギを飼い始めた人で、しばらくチリにいたと思っていたがいつの間にか町に帰ってきていたらしい。彼が最初に飼っていたヤギは死んでしまったが、その子供は今も生きており、K君は何人もの後輩を巻きこんで飼育を継続している。飼い始めた時は僕も手伝っていたのだが、大学院に入ってからはほとんど手伝っていない。しばらくぶりにヤギに会いたかったので、彼と一緒にヤギのと

          ヤギとウマ――丘の上で草を食む

          ランニングの途中で桜をみた話

           最近、ランニングの習慣がついた。お昼ごろに家を出て、6~7キロほど走っている。走るのはいい。自分の身体についてこれほど真剣に考える時間もそうないと思う。呼吸の仕方や、体重のかけ方を考える。なるべく楽に自分の重さを運ぶにはどうすればいいか。  右足と左足を交互に出すことと呼吸の呑吐を規則正しくこなしていく。このリズムを崩さないことが楽に走るコツだ。哲学者クラーゲスは『リズムの本質について』(平澤伸一・吉増克實訳 うぶすな書房)のなかでこのように書いている。 ギリシア語のレ

          ランニングの途中で桜をみた話

          ラウル・デュフィと格闘、及びそのリズムについての試論

           松本市美術館でラウル・デュフィ展を観てきました。非常な感銘を受けたので、(まとまってはいませんが)まだ熱いうちに書いておこうと思います。いつかこの熱が冷めてしまったときのために。  ラウル・デュフィは色彩を運動として捉えていたように感じました。これは彼の描く群衆やオーケストラが発する熱、音の波のようなものをみて、そう思ったのですが、彼の版画に描かれた梟の羽、馬の毛並みをみて確信に至りました。ああ、彼は空間と色彩を運動として捉えている、そう思ったのです。思えば彼の描く輪郭線

          ラウル・デュフィと格闘、及びそのリズムについての試論

          (小説)逍遥するマカローニ

           逍遥するマカローニ、マドンナをみつける。花のような美しさ。マカローニはついふらふらとついていく。季節は夏、日陰にはよい風が吹く。太陽に輝く女の髪。マカローニは直視できない。仕方なく、女の影をみてあるく。軟弱なマカローニ、アスファルトの影を追う。  街角のマドンナはパン屋へ入る。マカローニもパン屋に入る。なんていい香り。焼きたてのパンの、豊饒な香りがマカローニの鼻を健全にする。小麦とバターの魔法。マカローニは棚を眺める。クロワッサンを二つ、胡桃パンも買っていこう。マカローニは

          (小説)逍遥するマカローニ

          (小説)山毛欅と天狗に関する一考察

          ・第一章 山中における仏僧の記憶混濁現象山に住む老僧の庵に、一人の僧侶。老僧に訊く。 絶望しないためにはどうすればいいのでせうか。 老僧は笑つて云つた。 絶望に飽きんしゃい。 ※  若い僧侶は山を下りた。日暮れて山に影。足元の石や木の根に躓かないように気をつけて歩く。やがて影は大きく大きくなって、気がつけば闇の中、どこへ行けばいいのか分からなくなっていた。途方に暮れれば遠くの灯りが良く見える。夜の山を、小さな光に向かって、一歩ずつ歩いた。不思議と、木の根に躓くことはな

          (小説)山毛欅と天狗に関する一考察

          格闘の悲劇

          格闘はその悲劇的な構造のために観衆の精神を震わせる。選手は常に一人で敵と対峙せねばならず、そこには自身の裸の身体と敵の裸の身体、肥大した皮製の拳、そして夜のような不安と偶然しか存在しない。どちらかが生き、どちらかが死ぬ。死の不安から解放された生者の足元に、絶望する死者が横たわる。彼が死んだのは彼の無力のためではなく、運命が彼を見捨てたからである。哀れな、裸の死体。 格闘は終わらない苦しみの過程なのであり、結果は過程と過程の狭間、その小休止でしかない。格闘とは常に、休みな

          格闘の悲劇

          偏った姿勢でもまっすぐ歩けるけど

           先日、知人に誘われて「歩く」をテーマにしたパフォーマンスを観に行った。その感想は後日ちゃんと書くとして、今日は別の「歩く」話をしたい。  僕が学部生の頃に所属していた某思想研究サークルの機関紙に、自分の若書きが載っている。若書きと言っても3年前の文章なのでまだ少しだけあったかい若書きだ(コンビニから家まで持って帰ったファミチキくらいの熱量をイメージして欲しい)。そこに「荒野を裸足で歩く」という文章がある。内容を要約すると 我々が認識のメスで切り分けている世界は、本当は不

          偏った姿勢でもまっすぐ歩けるけど

          魔術的な言葉

           僕は「言葉をうまく使えれば魔法使いになれる」ということをよく言う。実際、言葉の使い方が上達してくると、口に出したことが具現化したり、願い事が叶ったりすることがある。それは、何かの仕事に対する報酬としてではなく、まさしく天から降ってくるような幸運なのだ。魔術とはそういうものであり、呪文を唱えることと願いが叶うことの間の過程が不可視のブラックボックスに入っているかのようなことなのだ。  イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンは「魔術と幸福」という短いテキストでこのことを示して

          魔術的な言葉

          芸じつ空間

           僕は信州大学で現代限界芸術研究会というサークルをやっている。これは哲学者・鶴見俊輔の『限界芸術論』(ちくま学芸文庫)を手がかりに「現代における限界芸術」を考える団体だ。単なるアマチュアリズムの礼賛ではなく、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画のような芸術の原始的形態を意識している。  その現代限界芸術研究会で2018年5月に「限界芸術祭」というお祭りをやった。一日だけのアンデパンダン展だ。このとき展示された「芸じつ空間」という作品をふと思い出したので、こうしてパソコンに向かって

          芸じつ空間