限界芸術祭_191001_0028

芸じつ空間

 僕は信州大学で現代限界芸術研究会というサークルをやっている。これは哲学者・鶴見俊輔の『限界芸術論』(ちくま学芸文庫)を手がかりに「現代における限界芸術」を考える団体だ。単なるアマチュアリズムの礼賛ではなく、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画のような芸術の原始的形態を意識している。

 その現代限界芸術研究会で2018年5月に「限界芸術祭」というお祭りをやった。一日だけのアンデパンダン展だ。このとき展示された「芸じつ空間」という作品をふと思い出したので、こうしてパソコンに向かって文章を書いている。これは工学部のS君によるインスタレーション作品だ(今、分類しようとしてはじめてこれがインスタレーションだということに気がついた)。学内にある青いベンチの周りを緑色の養生テープで囲い、そこを「芸じつ空間」と呼んだ。「芸じつ空間」の内部にあるものはすべて「芸じつ」として鑑賞される対象となる。S君は(少なくとも当時においては)少しだけ変わった人格を持っているだけのごく普通の学生だったが、アートワールドから少し離れた普通の学生の作品であるがゆえに「芸じつ空間」は「よその人からは(アートは)こう見えてますよ」というメッセージになるような気がする。

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  S君は(ダントーの「アートワールド」など読むまでもなく)芸術の制度的な側面を看破している。「芸じつ」が「芸じつ空間」に置かれているがゆえに「芸じつ」として扱われていることをS君は見抜いている。これを絵画や彫刻だけの話だと考えてはいけない。プロセニアム・アーチの内部で行われるあらゆることが「舞台芸術」と呼ばれるとき、その場は間違いなく「芸じつ空間」なのだ。乱暴な言い方をすればデュシャンの「泉」やウォーホルの「ブリロ・ボックス」、ケージの「4分33秒」もまた「芸じつ空間」の問題である。

 地方の芸術祭やサイト・スペシフィックなパフォーマンス作品などは、「芸じつ空間」として設計された場からの脱出をどこか求めているのかもしれない。しかしS君の設定した「芸じつ空間」が限界芸術祭参加者らの了解によって「芸じつ空間」として成立したことを考えると、ある場所が「芸じつ空間」であるのはそこを「芸じつ空間」とすることに同意するコミュニティがその場を占拠しているからだと考えられる。路上であっても、山中であっても場を構成するメンバーの合意があればそこは「芸じつ空間」になりうるのである。

 さて、このところ大いに話題の的となっている「芸じつ空間」がある。あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」だ。この件をめぐっては「プロパガンダか『芸じつ』か」というような議論が一部でなされていた。愛知芸術文化センター(以下芸文センター)のような典型的な「芸じつ空間」に置かれているのだからトーゼン「芸じつ」であるはずなのだが、名古屋市長のK氏は芸文センターを「芸じつ空間」とすることに同意していなかったために展示の中止を主張したのであろう。「芸じつ」を尊重せねばならない「芸じつ空間」において作品の内容を理由に展示の中止を主張することはルール違反である。作品に対するあらゆる批判は可能だが、それがいかに作品の評価を貶めようとも外部からの圧力による展示中止はありえない。

 しかし、ここで僕は逡巡してしまう。というのもこの「芸じつ空間」のルール自体、「芸じつ空間」が外部を遮断する閉鎖的な空間であることを示しているような気がしてくるからだ。Twitterで散見された左派アクティビストらが一貫して本件をレイシズムとセクシズムの問題とするのも、表現の自由云々を主張するアート界隈の高踏的であることに反感を抱いたためではなかろうか。

 先ほどの「芸じつ空間」をめぐる議論は、あるものが「芸じつ」であるか否かはそれが置かれた場によって決定されるという立場によるものである。しかし、先ほどちょろっと名前を出したアーサー・ダントーなどは「芸じつ」を単に制度的なものとする立場とは慎重に距離を取っている。

 ただ、こうしたアートワールド内部の自浄作用も空しく、外部からは(特に現代アートは)「芸じつ空間」ありきだと思われているみたいだ。「芸じつ空間」への合意がない「電凸の向こうの他者」と工学部のS君とは立場を異にするだけで本質は同じである。ホワイトキューブや緑の養生テープに囲まれた「芸じつ」が、金の子牛として弾劾されている。

「こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。」(「出エジプト記」32-35より)

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 畢竟、「芸じつ」が何なのかという問いに答えを出せないまま、僕は署名やら発言やらをしている。「芸じつ」を感性的な性質のみから規定することにはまったく同意できないが、「芸じつ空間」ありきと切り捨てられるほど冷淡にもなれない。実際、あいちトリエンナーレで観た作品のなかには「『芸じつ空間』に置かれた何か」以上に訴えかけてくるものを感じた。

 あいちトリエンナーレはもうすぐ終わる。時間がないから、とりあえず目の前の問題に立ち向かっている。署名をしよう。ニュースをSNSで拡散しよう。色々な人達と話そう。差別や歴史修正と戦おう……。

 S君はあいちトリエンナーレの一件をどうみているのだろう。去年の5月、僕らは木彫りの子牛を囲んで踊った。

 

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