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格闘の悲劇

 格闘はその悲劇的な構造のために観衆の精神を震わせる。選手は常に一人で敵と対峙せねばならず、そこには自身の裸の身体と敵の裸の身体、肥大した皮製の拳、そして夜のような不安と偶然しか存在しない。どちらかが生き、どちらかが死ぬ。死の不安から解放された生者の足元に、絶望する死者が横たわる。彼が死んだのは彼の無力のためではなく、運命が彼を見捨てたからである。哀れな、裸の死体。

 格闘は終わらない苦しみの過程なのであり、結果は過程と過程の狭間、その小休止でしかない。格闘とは常に、休みなく続く、不安と隣り合わせの意思の疎通である。しかもそれは、誤読が苦痛を伴うようなコミュニケーションなのだ。

 闘士の身体に注がれる視線はときにエロティックな色を帯びる。観衆はこの美しい裸体と裸体のぶつかり合いに興奮する。闘士よ!君の身体から流れるのは、汗か、あるいは血か!盛り上がる筋肉を包む薄い膜はいまにもはち切れそうだ。熱い、熱い体温。

 死とエロティシズムの饗宴のなかにあって、ただ闘士の理性だけが冷たい。そう、彼らだけが獣ではなく人間なのであり、理性を失った観衆に晒された哀れな理性そのものなのだ。観衆は彼らの欲望を裸の理性に擦りつける。

「よし、そこだ!殴れ!倒せ!」

ああ、お前、裸の理性よ。せめて身を守っておくれ。その柔らかい皮膚を傷つけないでおくれ。防御は恥ではない。恥ではないのだ。

格闘の全てが狂っていて、それでいて全てが悲しい。ただ、美しく悲しい世界で、裸の理性が戦っている。君たちはアレキサンダーでもナポレオンでもない。決して英雄ではない。君たちは哀れなマクベスなのだ。不安に震える謀反人、先王殺しの王、しかしマクベスは最後までマクベスであった。

 闘士よ、最後まで闘士であれ。悲劇の幕がおり、安息の時が訪れるそのときまで。

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