限界芸術祭_190317_0026

魔術的な言葉

 僕は「言葉をうまく使えれば魔法使いになれる」ということをよく言う。実際、言葉の使い方が上達してくると、口に出したことが具現化したり、願い事が叶ったりすることがある。それは、何かの仕事に対する報酬としてではなく、まさしく天から降ってくるような幸運なのだ。魔術とはそういうものであり、呪文を唱えることと願いが叶うことの間の過程が不可視のブラックボックスに入っているかのようなことなのだ。
 イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンは「魔術と幸福」という短いテキストでこのことを示している。アガンベンはまずベンヤミンの言葉から話をはじめている。

 ベンヤミンはかつて言ったことがある。世界について子供がもつ最初の経験は、「大人の方が強い」ではなく、「自分には魔法の能力がない」ということである、と。(中略)じっさい、子供たちが陥る抗しがたい悲しみは、まさにこの、自分たちが魔術の能力をもっていないという自覚から生まれるのかもしれない。(アガンベン「魔術と幸福」『瀆神』上村忠男/堤康徳訳 月曜社より)

 魔法が使えないことを知るというイニシエーションを経て、子供は大人に近づいていく。このイニシエーションを経ていない者は、永遠にネバーランドの住民となる。対して、ピーターパンに別れを告げた我々は努力の報酬としての幸福を期待するのだが、アガンベンはそうした報酬としての幸福のありえなさをこう表現する。

 子供たちは、昔話の被造物のように、完璧に知っている。幸せになるには、自分から才能をビンに入れておくべきであり、金の糞をするロバや金の卵を産む鶏を飼う必要があることを。また、いついかなるときも、ある目的を達成するために正直に努力することよりも、場所と決まり文句を知ることの方がずっと価値があるのだ。魔術とはまさに、幸福にあたいする者は誰もいないことを意味している。(アガンベン「魔術と幸福」より)

アガンベンは幸福にあたいする者がいない、つまり魔法とは決定的に不可能性のもとにあるものだと考えているようだ。しかし、僕はむしろ「場所と決まり文句を知る」ことの延長線上に「魔術的な言葉の使い方」があるような気がする。どうやら、僕はまだネバーランドから住民票を移していないのかもしれない。
 シェイクスピアは哀れなマクベスを狂わせるのに三人の魔女を呼び出した。魔女は預言めいた言葉を巧みに操り、ダンカン王の忠臣マクベスを裏切り者に変えた。ここでも、やはり問題は言葉なのである。現実的な思考に慣れきっているために、非現実的な空想に不慣れな読者にとっては、(三人の魔女はマクベスの妄想であり)そこに不可解な力ははたらいていないように思えるかもしれない。しかし、ことの本質は、我々がオッカムの剃刀で切り落としてしまった魔術的な部分にあるのかもしれない。
 言葉が魔術として作用することは物語の中で、あるいは現実の中で、しばしば起こる。これは言葉がそもそも魔術的な力を持っているからなのか、あるいは言葉の魔術的用法のようなものがあるのかは、僕にはわからない。ただ、最初に言ったように「言葉をうまく使えれば魔法使いになれる」ということはおそらく間違いないのだ。
 神聖かまってちゃんの「肉魔法」という曲がある。

 この曲は魔法の存在を信じることによって(先述したイニシエーションを拒否することで)大人になることを拒否するような歌詞からはじまっている。

 大人になりたくはない
 ガキだねと言われたくもない
 僕らわがままさ 僕らこの街じゃ
 魔法の使い手だって信じられれば
 信じ込むなら 信じ込めるなら
 (の子「肉魔法」)

 ここまでは先述してきたような話だ。「ガキだねと言われたくもない」というのも、「ガキ」の言い分であり、魔法の存在を信じ込むことでイニシエーションを拒否していることが読み取れる。しかし、ここでの魔法は無条件に発されるものではない。

 肉体ひとつ犠牲にすれば
 どでかい魔法がひとつ
 (の子「肉魔法」)

肉体ひとつを犠牲にして大きな魔法が発される。ここで魔法は先述してきた言葉の領域から、肉体へと侵犯してくる。そして、気づかされるのだ。魔法とは言語ではなく音であったことに。
(自身の身体の一部である)声帯の振動が他者の身体を共振させるとき、その構図はミメーシス的なコミュニケーションと言えるだろう。ソクラテスの身体がダイモーンの声を受けいれたこともまた共振の一種であり、そのソクラテスの声もまたプラトンの身体を共振させたのである。三人の魔女の振動はマクベスの身体を共振させたのであり、これこそが「魔術的な言葉の使い方」の正体なのかもしれない。
 神聖かまってちゃんは肉体ひとつを犠牲にした強烈な振動によって万物を共振させようと試みる。「駆け出せよ 僕の肉魔法」という言葉の振動は、もはや震源であったはずの身体を離れている。魔法は、それを使う側にとっては言語的なものであり、それを受け取る側にとっては肉体的なものである。この非対称性もまた、魔法の魔法たる所以のひとつであろう。
 魔法とは、決定的に肉体へ向けられた言葉なのだ。

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