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修論で書いた空手の三様態について

 図書館から借りてきたクロソウスキー、返却期限が迫っているのでさっさと読まねばならない。ただ「~せねばならない」という義務感は深い耽溺と相性が悪く、いまいち読書にノレないので「修論の話でもするか」と思いパソコンを立ち上げた。
 僕は卒論に引き続き、修論でも空手について論じた。卒論では沖縄で行われている空手の型について、カイヨワやアンリオの遊び論などを引用しつつ分析したが、修論では沖縄の空手に加え、本土でスポーツ化した伝統派空手、それと大山倍達の創始した極真会館に端を発するフルコンタクト空手の三つの空手について考察している。
 この記事ではそれぞれの空手についての詳細な記述はなるべく短くまとめ、修論のなかで僕が導入した用語「モード」「コード」「アンチコード」の説明と修論で書けなかった(というか僕が解決しきれなかった)格闘技に関するいくつかの疑問についての話題を中心に書いていきたい。

1.空手の三様態

 まず空手の三つの様態について簡単に紹介しておきたい。空手には主に「型を中心に練習する、組手(実際に闘う)競技をあまり行わない空手」と「組手競技はやるけど攻撃は相手に当たる直前で(というか当たるけど打ち抜かずに)止める空手」と「組手競技で攻撃を打ち抜く空手」がある。この試合競技との関わり方は個人レベルというよりは流派や団体レベルで決まっていることなので、このカテゴライズによって無数に存在する空手の流派や団体をおおまかに三分類することができる。

 たとえば沖縄を中心に行われている古流の空手の流派や団体には型を重視するところが多く、組手の試合には消極的だ。一方、高校の部活などで行われている空手は基本的に全日本空手道連盟という団体に加盟しており、寸止めのポイント制による組手競技を行っている場合が多い。対して寸止めを行わなず相手に思いきり当てるルール(「直接打撃制」と呼ぶ)の空手団体は極真会館以降にできた新興の団体であることが多く、ルーツを辿ると極真会館からの分派であることも少なくない。(※多い、少ない、と大雑把に書きましたが、この辺は関係者には自明のことだと思ったので特に統計を取ったりはしていません。もし僕の知らない間に多くの空手部が全空連傘下から外れているとか、本土で発祥した「型中心の空手を行う団体」が沖縄ルーツの空手団体よりも多くなっているとか、そういった情報があれば教えてほしいです)

 こうした空手の三つの様態について、修論での記述に従いこの記事でも「古流(型中心で組手やらない)」、「伝統派(寸止めでの組手競技をやる)」、「フルコンタクト(直接打撃制での組手競技をやる)」と呼びたい。そして「モード」「コード」「アンチコード」というのはこの三様態それぞれの特徴を表すと同時に、それぞれがどのように分岐してきたかを示す用語として導入したものである。

2.モード、コード、アンチコード

 さて、ここで問題の「モード」「コード」「アンチコード」についての話をしたい。これはそれぞれ「古流」「伝統派」「フルコンタクト」の特徴とその起源を象徴する用語として導入したものだ。
 まず「モード(mode)」について。これは手法や様式を含んだ、個別の変化を下支えする道筋そのものを指し示すときに使われる単語であると同時になんらかの状態を表す単語でもある。
 僕は卒論執筆の際、フィールドワークとして沖縄に三週間滞在し、いくつかの空手道場に通い続けたことがある。そのときに感じたのは、型が空手の技法であると同時に空手的な身体を作る鋳型のような役割を果たしているということだった。沖縄において「空手」という身体技法は、型を習得すると同時に、型を通してある身体の状態に到達するような技法であり、その身体の状態を理解してさえいれば枝葉末節の部分にはかなりの個人差(そして流派間の差)が許されているようだった。
 沖縄の空手はひとつの「モード」であり、ある身体の状態であると同時に、そうした身体の状態へと続く道筋であると感じた。僕は、一見幅が広く様々な流派があるように見える沖縄の空手は、しかしこうした「モード」を重視しているという点において共通していると考え、「古流の空手」を「モード」という言葉で表すことにした。
 対して「コード(code)」、これは法典や体系的な記号、規則を指し示すときに使われるものであり、ここでは伝統派空手が設定するルールの厳密さを強調するために用いているが、制度化されたあらゆる空手が「コード」を重視しているとも考えられる。
「モード」との最大の違いは、あらゆる動作が他者(審判)から客観的に判断可能なものに限定されるという点である。「モード」の空手が(主観的な)自己の身体のある状態を重視していたのに対し、「コード」の空手ではいかにそうした主観的な判断を排除し、誰が見ても公平(かつ安全)に試合を運営するための制度が構築されている。公平性と安全性の向上はまさしく近代スポーツ的な意味での発展であり、その帰結として2020年に開催されるはずだった東京オリンピックでは競技として採用されていた。
 フルコンタクト空手に対して用いた「アンチコード(anti-code)」は、こうした既存の「コード」に対する反発のポーズをとりつつ、既存のものとは「逆のコード」を設定しているという「脱/反ルール的な状態」を意味している。極真空手を創始した大山倍達は1967年の著書のなかで、明確に寸止めルールに対するフラストレーションを表明している。

ところが、これまでの空手試合はその制限を加えすぎたところに問題があった。相手に当てれば判定負けという規定が横行している。そして、審判の神秘的な眼力によって、0.1秒以内の技を一本かどうか判定している。選手の拳の力は問題にされないし、打撃に対する耐久力の差も問題にされない。故意にせよ、故意でないにせよ、審判がある技を見逃してしまえば、それですんでしまうのである。(大山倍達(1967)『ダイナミック空手』日貿出版社p.195)

 こうした寸止めルールに対して大山が提唱した直接打撃制は、素手素足での攻撃を実際に打ち抜くことを重視していた。これは明らかに寸止めルールに対する当てつけであり、既存の制度に対するオルタナティブの提起であった。加えて大山はメディアを積極的に活用し、極真会館は20世紀後半を通して時代を席捲する存在へと成長した。
 極真会館の試合では実際に戦闘不能になる場合が珍しくなかった。蹴られて失神するもの、腹部を強打されて立てなくなるものなどが続出しており、メディアを通して伝えられたその視覚的な過激さは社会の規則(コード)から外れた存在を暗示していた気配がある。大山を主人公にした漫画『空手バカ一代』で描かれていたのは大山の「時代おくれ」で「狂気的」な空手への姿勢であり、誤解を恐れずに言えば公平と安全が担保された伝統派空手的なケの世界ではない、個性と暴力の肯定されるハレの世界に人々は惹きつけられていた。
 極真会館の試合にもルールはあったが、大山は既存の寸止めルールからの逸脱を強調しており、「二重のアンチ・ルール(ルールの外側である―もうひとつのルールである)」という意味でフルコンタクト空手に対し「アンチコード」という用語を用いた。
 さらにつけ加えるなら、極真会館から分かれ、組み技や寝技を解禁した独自の「空道」という格闘技を創始した大道塾は極真会館に対する「アンチコード」といえるかもしれない。「アンチコード」という用語には「極真会館に端を発する「アンチコード」の系譜がフルコンタクト空手全体にあるのではないか」という予感を暗示する意図も込められている。

3.宿題の話

 修論ではこの「モード」「コード」「アンチコード」という用語を用いつつ、それぞれの空手が「暴力」についてどう考えているのかを考察した。その話はまた気が向いたらすることにして、この記事では最後に修論でやりきれなかった宿題の話をしようと思う。

「用語について」
 ここまで大雑把な三つのカテゴライズに対して「モード」「コード」「アンチコード」という用語を当ててきたが、もっと細部を見れば沖縄空手の中に「モード」「コード」「アンチコード」の流れを見出したり、伝統派空手の中に同じ流れを見出したりすることもできるかもしれない(これは口頭試問でも指摘された)。そもそも、ゆるやかな身体の「モード(状態)」を重視していた遊戯的な身体活動が、なんらかの理由で明文化されたルールに基づく競技として「コード」化し、その「コード」に不満を持つ勢力が「アンチコード」化する、という事例は空手に限らないような気もする。このあたりをもう少し掘ると「モード」「コード」「アンチコード」がかなり使いやすい用語になる気がしている。
 
「身体について」
 団体や流派の制度的な話に終始し、身体レベルでの話があまりできなかったのも後悔の残る部分だ。武術的な理念の話だけでなく、格闘技的な欲望の部分、特に苦痛と快楽の結びつきについては言及できそうな感じもあったが、ギリギリそこまで行けずに提出する運びとなった。今は格闘技における苦痛と快楽、そして禁欲と回復に関心があり、とりあえず苦痛と快楽の結びつきに関してバタイユ周辺を、禁欲と回復に関してはThomas J.Csordasの文献を掘っている(他にも良さそうな本があれば教えてほしいです)。

「デーモンについて」
 これはまだほとんど言語化できていないのだが、ヤンポリスキーの『デーモンと迷宮』に出てくる「デーモン」と格闘技とを結びつけられないかと考えている。
 哲学者の入不二基義氏が2019年に『現代思想』で発表したレスリング論はかなり刺激的で面白かったのだが、氏がレスリングの「真理」「神」と呼んでいるものについて、僕はヤンポリスキーが「デーモン」と呼んでいるものに近いと思っていて、格闘技における「デーモン」の正体を言語化できれば、「格闘技考える」という段階から「格闘技考える」という段階にステップアップできる気がしている。ただこれはまだ生煮えも生煮えのアイデアなので、着手できるのが何年後になるかはわからない。

 あと、こういうことを発表する形式としてかっちりした論文がいいのか、エッセイ的にさらっと書くのがいいのか、あるいは詩や小説といった文学作品にするのがいいのかは悩み中である。悩みつつも就職口も探さにゃならんし、バイトもせにゃならんしでなかなか世知辛い。東京に相談したい人が何人かいらっしゃるのだけど、こういう状況下なので東京には行きにくく、しばらく連絡も取っていないので連絡するのも気恥ずかしく、といった感じで今はコロナの前まで継続的に参加していた幡ヶ谷の小さな読書会などを懐かしく思いつつ、コツコツ積んでいる本や論文を読むなどしている。

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