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ラウル・デュフィと格闘、及びそのリズムについての試論

 松本市美術館でラウル・デュフィ展を観てきました。非常な感銘を受けたので、(まとまってはいませんが)まだ熱いうちに書いておこうと思います。いつかこの熱が冷めてしまったときのために。

 ラウル・デュフィは色彩を運動として捉えていたように感じました。これは彼の描く群衆やオーケストラが発する熱、音の波のようなものをみて、そう思ったのですが、彼の版画に描かれた梟の羽、馬の毛並みをみて確信に至りました。ああ、彼は空間と色彩を運動として捉えている、そう思ったのです。思えば彼の描く輪郭線は揺れ動いていました。最初、ラウル・デュフィという人物は「輪郭などモチーフがそれと分かればいいのだ」というモダニズム的な思想からそうしていたのだと思っていましたが(もちろんそれもあるでしょうが)、これは静止したものを描くのではなく、運動そのものを描こうとしたときに直面する、その不可能さによる歪みだったのではないかと思います。

 彼の動物や植物、昆虫はすべてがうねうねとしたランダムなリズムの中に配置されていて、それがある種自然のリズムを表現したもののようにも感じられました。それは磁場のように、複雑ながら一定の方向を持つリズムです。そうしたリズムは、もしかするとある生き物が生まれながらに持つ生命のリズムとすら呼べるものかもしれません。蝶々の翅の美しい模様が、植物の葉脈や花弁の輪郭と混ざり合いながら音楽を奏でるのです。

 彼の絵画やテキスタイルの全てがリズムでした。それは今我々の生きているこの空間にも生き生きと満ちている生命のエネルギーの磁場でもあり、常に動いているがゆえに不動であるかのように見える万物の呼吸なのです。彼のテキスタイルはそれが服となったとき、布の襞が生みだす陰影を受けてまた新たなリズムを生みだしていました。もちろんそれは像の鼻からチーターの胴体へとつながる緩やかな曲線にも感じられたものです。

 彼の描く全てが運動でした。それは私自身が研究している「格闘」そのものでもあります。格闘においては、相対する二者のリズムが身体の接触面から緩やかに溶けていき、やがてその空間における力の磁場がひとつのリズムへと収束することがあるのです。有能なボクサーが、どれほど強い敵の攻撃をも簡単にかわしてしまうのは、彼が空間のリズムを支配しているからです。リズムは身体にあって身体を超えたところの、呼吸であると同時に不死の魂(プシュケー)のようなものなのです。ある身体のリズムが別の身体のリズムを乗っ取ったとき、乗っ取られた身体は幽霊に憑依されたかのようになります。もはや呼吸ひとつさえ彼のものではなく、ただ半歩遅れてついていくことしかできない不完全でみじめなドッペルゲンガーのようになるのです。

 あの展示場において、ラウル・デュフィのリズムは確かに私の身体を乗っ取っていました。私の目は彼のリズムを、呼吸を、あるいは魂を追わざるを得ず、しかもそのように身体が乗っ取られたことを私は悦んでいました。ハイデガーは芸術作品を闘争として語りましたが、もし私のこの精神的な動きが格闘であったとしたら、私はラウル・デュフィの作品に指一本ふれることすらできなかったに違いありません。繰り返しになりますが、全てがリズムで、しかも調和していたのです。

 しかし、最後の展示エリアの直前にあった闘牛の絵がこの闘争を終わらせました。そこにはただ円形に配置された牛や人が並んでいるだけで、確かに美しく調和しているのですが、そこには闘争につきものの肉体の流動や呼吸の温度がなかったのです。

 私は闘牛を実際に見たことはないのですが、私の期待するような肉体や呼吸の描写がバタイユの『目玉の話』にあるので引用します。

……死にゆく牡牛が体毛から湯気を噴きあげ、汗と血を流すとき、その前に立つ男の真紅の布と太陽にきらめく剣が、最後の変身の仕上げをおこない、この闘技場の魅惑的な側面をあらわにするのです。すべてはスペインの灼熱の空の下で繰りひろげられます。それは人が思うほど色あざやかでも派手でもなく、ただ太陽が君臨し、まばゆいほど輝かしく――どんよりと蒸し暑く――ときには現実離れして見える世界です。それほど光の輝きと熱の強さはすべての感覚を解き放ち、もっと正確にいえば、肉の湿った柔らかさをむき出しにするのです。(バタイユ「目玉の話」『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平訳 光文社古典新訳文庫(2006)より)

 それですっかり私はデュフィの夢から醒めてしまいました。最後にあった綺麗な服も、どことなく空疎に感じられるほどに幻滅してしまったのです。

 しかし、それはラウル・デュフィという作家の直観が損なわれたからではないと思います。彼が人間の身体そのものではなく自然のなかの人間を描くとき、それはどこか不純物のようなものに成り下がってしまっている、そんな気がしたのです。偉大なる自然のリズムの中の不純物としての人間、という感覚には私も多少共感を覚えます。それは山の中に捨てられたペットボトルのように、人をげんなりさせるのでしょう。

 私はこの文章を、フィリップ・グラスの音楽を聴きながら書きました。彼の音楽もラウル・デュフィのテキスタイルのように、繰り返されるリズムによって我々の魂を絡めとるものです。このリズムについてさらに考えていくために、この鑑賞のあとで私は一冊の本を買いました。ルートヴィヒ・クラーゲスという人の『リズムの本質について』(平澤伸一・吉増克實訳 うぶすな書院(2006))という本です。続きはこれを読んだときに書くことにして、ラウル・デュフィと格闘、そしてリズムの話は一旦ここまでにします。ありがとうございました。

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