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フーコー『監獄の誕生』とおまけの国語の話~カレーじゃなくて肉じゃが~

※この原稿はフーコーの規律・訓練的な権力の話とスポーツ、そして武道の型の話をする予定で書き始めた原稿だったのだけど、修論で使おうと思っていたネタをうっかり書いてしまったので急遽読書論をぶちこんだ、いうなれば「カレーを作ろうとしたけどルーを買い忘れたので途中から肉じゃがにした肉じゃが」みたいな文章です。あんまり粗はさがさないでくださいませ。

フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』のざっくりした要約と、国語とか読書についてさっきまでぼんやり考えていたことです。

・1.フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』要約
 フーコーが指摘したのは18世紀ごろに起こった司法制度上のある変化である。おおまかに言えばそれは、身体刑から監獄への移行という形で現れた、新たな権力構造を象徴するものだった。
 身体刑とは主に国王暗殺者などに対して行われる残虐な刑罰のことで、君主の権力を効果的に民衆にアピールするために行われていたものだ。これは君主権力を民衆にアピールするという意味では効果的だったが、一方で民衆と君主権力の接合点という危ういものでもあった。処刑の失敗が君主権力に泥を塗ることになったし、ときには民衆が死刑囚を奪還したりすることもあったという。
 革命後に権力を握ったブルジョワジーや知識人たちはこうした君主権力に基づいた刑罰(身体刑)を批判した。しかし、18世紀における批判は人道的な観点からというよりは経済的な観点からの批判だった。かつては君主に絶対的な権力が集中しており、司法権は絶対的な君主権力と同一視されていた。そのため、各地に強大な司法権を持つ人が何人もいることになってしまい、司法は混乱した状態だったようだ。混乱した司法制度のなかでは犯罪の黙認も度々行われていた。君主の絶対権力のなかには「黙認する権利」も含まれていたのだ。
 しかし、革命後に権力を握ったブルジョワジーにとって、これは好ましい状況ではなかった。これまで黙認されてきたような納税の拒否や港・工場での横領といった軽微な犯罪は、彼ら(ブルジョワジー)にとっては財産に関わる問題だったからだ。漏れのない司法の徹底、これを実現するために為されたのが犯罪の記号体系化(コード化)である。ここで強調されているのは革命後の権力にとって重要だったのは違法行為を排除することではなかったということだ。重要なのは違法行為を分類し、管理することだった。
 効率的な管理のためには裁判官がきちんと刑を言い渡す必要がある。かつての身体刑のような残虐な刑罰では、裁判官はその精神的な負担から、有罪宣告を躊躇う場合があった。こうした裁判官の精神的な負担を緩和し、法に基づく刑を徹底的に施行するために刑の緩和が行われたようだ。そしてさらに効率化を求めた人々は、囚人をなんとか矯正して労働力として搾取できないかと考えるようになる。
 少し色々な話を端折って言うと、この効率的な犯罪の管理、犯罪者の矯正のために採用されたシステムが監獄ということになる。これはかつて身体に向けられてきた権力が身体を通してさらに奥の精神へと向けられるようになったということである。フーコーが「精神は実在する」と言う意味は、おそらく権力の明確な対象としての精神があるということであり、精神に確実にはたらきかける装置があるということなのだ。
 ここで用いられる権力の特徴は「規律・訓練」という言葉で表される。これは規律を徹底させたり、実際に訓練させたりすることを通して人々から抵抗の力を奪って従順にし、一方で労働生産力は増強するという(悪)夢のような技術だった(権力がひとつの「技術」であるということも本書で強調されている)。
 この規律・訓練の権力が広範な成果を引き出せたのはパノプティコンによって象徴される視線の内在化である。パノプティコンはイギリスの法学者・哲学者であるベンサムによって考案された建築装置で、円形に並べられた独房群の中心に監視塔を置くというものだ。独房を外から光で照らすと、中心部にある監視塔に囚人の影が映る。こうして少ない人数で監視することができるというものだが、フーコーが注目するのはその見る―見られる構造の逆転である。
 身体刑においては君主権力ことが見られ、畏怖されることによって成り立っていた。しかし、パノプティコン的な権力は監視者の姿を隠したまま、一方的に見るのである。これは建築としてのパノプティコン(=牢獄)だけを指し示すわけではない。例えば学校の成績表や病院のカルテ、人事の審査にもパノプティコン的な権力が表れている(「なんだ、そんなものなら君主権力なんかよりずっといいじゃないか」という意見もあると思う。不徹底ながら反抗者の身体をみせしめに痛めつけるのと、こっそり覗きながらこっそり支配するのと、どっちをキモいと思うかは自由だ)。
 やがてパノプティコン的な権力は単一ではなく複合した形で用いられるようになる。監視をする人は一方で誰かに監視されており、しかも自分を監視している存在は見えないという一方向の見る―見られる構造によって人々は不可視の視線(権力)を内在化させ、その意図に従って動くようになるのだ。
 こうした監獄の周囲にはよく似た構造を持つ施設が生まれる。その例としてはある種の貧民救済施設などが挙げられているが、フーコーがその完成形と考えているのはメトレーの少年施設である。メトレーの少年施設では子供たちがそれぞれ小さなグループに分けられる。そのグループのなかでは年長者と兄弟たちといった疑似的な家族関係が作られる一方、子供たちはときに軍隊のような、あるいは仕事場、あるいは学校、あるいは裁判所のような性格を同時に持つそのグループのなかで管理される。そして(また色々端折って言うと)複数の監禁施設が互いに結びつきながら人々をコントロールしていく様子を、フーコーは「監禁群島」と表現している。

・2.国語と規律・訓練
 考えてみると、規律・訓練の一環として受けた教育をもとに僕は本を読んだり物を書いたりしているわけだ。現代文の試験を楽々と「解いてしまえる」従順さは、読者としての自分を完全に規定している。本ははじめから終わりまで順番に読むもので、自由な解釈にもある程度の範囲がある。高校の国語が「論理国語」と「文学国語」とに分けられるというニュースには多くの人が賛否両論を展開していたと記憶しているが、果たして学校教育における国語は本当に「読書」だったのだろうか。
 ヴァレリー・ラルボーは『罰せられざる悪徳・読書』という本を書いている。ここではローガン・ピーアソール・スミスの「慰め」という詩を引用しつつ、「読書」を「悪徳」として描いている。なぜ悪徳なのか。ラルボーはこう語っている。

 事実、読書は一種の悪徳なのだ。私たちがつねに強烈な愉悦感をもってたちかえる習慣、私たちがそのなかに逃避しひとり閉じこもる習慣、私たちを慰め、ちょっとした幻滅の憂晴らしともなる習慣、そういった習慣すべてが悪徳であるように。(ヴァレリー・ラルボー『罰せられざる悪徳・読書』岩崎力訳 みすず書房)

さらにラルボーは読書が美徳や叡智に人を導くような幻想を抱かせる悪徳であること(実際はそうではないということ)、そしてまた統計的に読書が「他の悪徳と同じく例外的で異常な習慣だということ」を語っている。僕自身、そう思う。「職業上の必要に迫られて」読む以外の読書は悪徳であり、そしてそれこそが甘美な読書経験なのだ。全然研究と関係ない本を読んでいるのがやはり楽しいし、それがなくては生きていけないとさえ思う(中毒もいいとこだ)。
 さて、ここで学校教育における国語に立ち返ろう。ここではとにかく一定量の文章を早く正確に読解する訓練を行っていた(と思う)。生徒を飽きさせないよう、適度に球形的な挿話を挟みつつ、やっていたのは「正しい読解」の仕方だったはずだ。これはある意味「職業上の必要に迫られて」行われる読書の一種だと考えられる。そもそもそれがどんな文学作品を扱おうと、国語はすべて読解の規律・訓練、いわば「論理国語」だったわけだ。
 さて、そんな純粋培養された一山いくらの「従順な身体」が大学の人文系学部のような場所に来ると、今度は悪徳に汚染される(普通はそうなるはずだ)。甘美な悪徳としての読書に耽溺し、気づいたら卒業、あるいは留年ということになっているのではないだろうか。「あれ、おかしいな。バタイユまだ全部読み終わってないのに」なんて言ってる間に卒業式が始まっている。おかしいぞ、世界。(余計な話をしすぎるのが僕の悪い癖だと自負している。むしろ寄り道せずにフーコーの話ができたことをほめて欲しい)
色々言ってきたが、じゃあ学校権力に反抗すればいいのかというと、別にそうでもないことはハマータウンの野郎ども(ポール・E・ウィリスによって書かれた社会学の名著)によって証明されていたりする。別にむやみに反抗するもんでもないのではないか、という指摘はごもっともなのだけど、せっかくなので少し抵抗できそうな手段をいくつか持っておくのもいいんじゃないかしら。そのひとつとして、なんとなく大正期のアナキストたちの文章を読んでおくというのは面白いと思う。過激で、雑多で、妙に熱っぽい文章に触れて、気持ちだけでも不真面目になっておくのは悪くない。たぶん大杉栄が有名だし、アクセスもしやすいだろうけど、僕は(アナキストかどうかは置いといて)辻潤の文章が好きです(「ものろぎや・そりてえる」と「ふもれすく」がオススメ)。もちろん多少こういった読書をしたからといって何かが急激に変わるかというと微妙だけど、「従順な身体」にも夜中に信号無視するくらいのワルさは生まれるんじゃないかな。たぶん。

・おまけ
 ここで終わろうと思ったのだけど、急に一冊思い出したので紹介しておきたい。タハール・ベン・ジェルーンの『不在者の祈り』という素晴らしい本があるのだけど、そのなかに「風が頁をめくり、行き当たりばったりにどのようにも読める本」という表現が出てくる(たぶん人生のメタファーじゃないかしら)。これ、すごくいいと思う。こういう気持ちで生きていきたいなあ。

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