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ランニングの途中で桜をみた話

 最近、ランニングの習慣がついた。お昼ごろに家を出て、6~7キロほど走っている。走るのはいい。自分の身体についてこれほど真剣に考える時間もそうないと思う。呼吸の仕方や、体重のかけ方を考える。なるべく楽に自分の重さを運ぶにはどうすればいいか。

 右足と左足を交互に出すことと呼吸の呑吐を規則正しくこなしていく。このリズムを崩さないことが楽に走るコツだ。哲学者クラーゲスは『リズムの本質について』(平澤伸一・吉増克實訳 うぶすな書房)のなかでこのように書いている。

ギリシア語のレイン=流れるに由来するリズムの語を文字通りに受け取るなら、それは何か流れるものであり、したがって途切れることのない連続性である。(クラーゲス『リズムの本質について』p.21より)

 「途切れることのない連続性」はメトロノームによって生みだされるような機械的な反復運動 とは対置されるものである[1]。ここからは、途切れることのない生命の時間が浮かび上がってくる。確かに左‐右や呑‐吐というように切り分けられた部分をみると、途切れているようにみえるかもしれない。しかし、左右の足が滑らかに連動して動くとき、あるいは呼吸が淀みなく繰り返されるとき、そこに「途切れることのない連続性」があることに気づく。

 流れるように走りながらも、左右の足は絶えず交互に踏み出されている。吐いた息はどこかへ消え、代わりに新しい空気が肺を充たす。右足が離れると左足が来ること、息が出ていくと息が入ってくること、この交代に生命を見いだすためには、それを区切るような「分割」を避ける必要がある。再びクラーゲスの言葉に耳を傾けたい。

来ると去る、近づくことと離れること、満ち潮と引き潮、受け取ることと手放すこと、出会いと別れとは(すべての機械や定規が実現している)時間的空間的区間を分割する規則にはふくまれていないものである。分割規則そのものが軽やかな心情にとってはこれらを心情へともち込むきっかけとなることもないとは言えないかもしれないが、しかし満ち潮と引き潮、受け取ることと手放すこと、出会うことと別れることという人生の免れがたい交代につれてあらゆるリズム的な脈打ちを何よりも人間の生命を映し出す深い感動に変えるものは、ただそのような分割規則にはふくまれていないものだけなのである。このことを感じることのできない人、そしてそれゆえにまた考えることもできない人は、偉大な韻律学者であったとしても、リズムには永遠に縁がないままであろう。(クラーゲス前掲書pp.72-73)

 機械的な時間や空間の分割は、途切れることのないリズムの世界へと導くきっかけにはなるかもしれないが、しかしその分割規則から離れないかぎりは生命のリズムが生みだす感動を感じることができない、のかもしれない。
 走るにつれ、左右の足の踏み出し方も、呼吸の仕方も、ほんの少し変わっていく。絶えず移り変わること、言い換えれば「変わらずに変わりつづける」リズムこそが、生命を神秘的に彩っている。

 イタリアの哲学者アガンベンは『中味のない人間』(岡田温司他訳 人文書院)の第九章でリズムについての思索を展開している。ヘルダーリンの「すべてはリズムである……」という発言を手がかりに、古代ギリシアまで遡りながら(大胆にも)リズムをエポケー(休止)として考えていく。
 なぜリズムがエポケーになるのか。アガンベンはまずリズムを両義的なものとしてとらえていく。ここでの「両義」とはリズムの持つ二つの性格を表している。ひとつは(クラーゲスはこれをリズムに含まなかったが)時計や歯車が正確に刻みながらも流れ去っていくような時間性であり、もうひとつは例えば音楽作品を聴いているときのように、流れ去っていかない中断や断絶としての非時間性だ。そしてエポケーの発生源であるエペコーという動詞にも二重の意味がある。「引き留める、宙吊りにする」という意味と「さしのべる、さしだす、提供する」という意味だ [2]。アガンベンはこれを結びつけ、次のように言う。

「リズムとはエポケーであり、与えられたものであり、保留である」(p.149)

 アガンベンのこうした言葉の根底には芸術を鑑賞する時間の特別さに対する素朴な感覚があるように思う。実際、美術館やギャラリー、劇場には日常生活から切り離されている(と同時に日常生活と結びついている)特別な空間と時間がある。素晴らしい作品と出会ったとき、時間は停止するように感じられ、さらに自分がいま立っている場所から「遠く離れたどこか」にいるかのような気持になることがある。
 アガンベンはリズムをエポケー(エペコー)と重ね合わせたあと、すかさずエペコーの第三の意味に言及する。エペコーには「現前している、支配する、保有する」という意味があり、アガンベンはこれとギリシアの詩人が発した「リズムが(人間たちを)とらえる」という言葉と重ねて次のように考える。

リズムがとらえるとはつまり、リズムが与え、引きとめ、支配することなのだ。リズムは、より根源的な次元における法悦にみちた逗留=休止(ディモーラ)を人間たちに付与するのと同時に、計量可能な時間の逃亡のうちへと人間を陥れるものである。リズムは、与えつつ引きとめるエポケーにおいて人間の本質をとらえる。つまりリズムとは、存在とともに無を、作品の自由空間への要求とともに暗黒や破滅への衝動をも、人間に付与するのである。(アガンベン前掲書p150)[3]

 3~4キロほど走ったところで交差点を渡る。折り返し地点だ。道のわきには桜並木が並んでいる。僕のほかに人間は誰もいない。桜の枝には小鳥がさえずっている。僕が走ってきたのに驚いた鳥が数羽飛び立つと、花びらがさらさらと降ってくる。ここは桃源郷かと、思わず足をとめてしまった。立ち止まってみてもなんのことはない。ただの桜である。
 
 ここ最近、件の感染症のために家に引きこもっている。そのせいか、どこかこの状況が永遠に続くような気がしてしまう。ただ、ときどき外に出て走ると、世界のどこかで何かが絶えず変わっていることに気づく。たとえば春が来たこととか。あるいはお腹がすくこととか。

 SNSではみんながカジュアルに絶望したりしていて、それでも声をあげる人たちのおかげで、ちょっとずつ状況はよくなってきているような気もする(気のせいかもしれない)。僕も、おかしいことにはおかしいと言っていく所存。
 
 最近はそんな感じです。

以下注

[1]「……楽曲のメトロノームに正確に従う演奏、杓子定規に韻律に従って朗読される詩、分列行進、その他類似のものを喩えて言えば心情をもたない死んだものとして体験し、そのような作業を「機械的」と呼ぶのがふつうであることに注目しよう。そうすると次のように表現できるであろう。もっとも完全な規則現象は機械であり、機械的運動はリズムを抹殺する、と。」(クラーゲス前掲書p.16)

[2] アガンベン前掲書p.149

[3]「リズムがとらえる」、「支配する」のあとに本文ではギリシア語が付されている。

参考文献

・ルートヴィヒ・クラーゲス(2011)『リズムの本質について』平澤伸一・吉増克實訳 うぶすな書院

・ジョルジョ・アガンベン(2002)『中味のない人間』岡田温司・岡部宗吉・多賀健太郎訳 人文書院

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