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(小説)山毛欅と天狗に関する一考察

・第一章 山中における仏僧の記憶混濁現象

山に住む老僧の庵に、一人の僧侶。老僧に訊く。

絶望しないためにはどうすればいいのでせうか。

老僧は笑つて云つた。

絶望に飽きんしゃい。


 若い僧侶は山を下りた。日暮れて山に影。足元の石や木の根に躓かないように気をつけて歩く。やがて影は大きく大きくなって、気がつけば闇の中、どこへ行けばいいのか分からなくなっていた。途方に暮れれば遠くの灯りが良く見える。夜の山を、小さな光に向かって、一歩ずつ歩いた。不思議と、木の根に躓くことはない。遠くのほうで山犬の遠吠えが聞こえる。その切なさに、夜の星。
 星を眺めて歩いたので、またも木の根に躓いた。しばらくして、ようやく灯りの近くまで来ると、そこは小さな山村だった。今日は何かの祭りのようで、面(おもて)をつけた男たちが、篝火(かがりび)を囲んで舞っている。冷たい水のような舞、足元はひらひらと。前に出たかと思えばくるりと後ろに下がる。そうかと思えば右にひらり、左にひらり、滑るように舞い落ちては、ふわりと浮き上がる。僧侶がしばらく見ていると、一人の男が声をかけてきた。
「おまえさァ、道ン迷ったのか。」
「はい。」
「ほうか。ならうちへこィや。」
「ありがとうございます。」
 男について歩きながら、僧侶は訊く。
「何の祭りですか。」
「天狗さァを鎮める祭りじゃ。」
「天狗様とは。」
「聞きてェか。」


 昔のことだァ。前の前のその前の村長の権六の家にたづっていう娘がいたンだ。たづはえらィべっぴんだったが、村長の権六は腕も切れるし頭も切れる、おまけに癇癪持ちだったから若ェ衆も怖がってたづに声をかけられンかったと。ただ、誰でも年頃になりャあ惚れた人ン一人もできる。たづは兵六という若者に惚れた。兵六もまた、たづンことを好(す)ィていた。二人は、権六に隠れてよくこそこそ山ン中で逢っていた。ただなンせ狭い村ンこと、二人の噂はすぐに権六ン耳ン入った。でもな、権六も鬼じャねェ。兵六が働き者だってことは村中知っていたから、権六は二人が夫婦になることを嬉しく思っていた。でも、兵六の方は権六に殺されるんじャねェかと恐れていた。
 満月の夜、兵六はたづを連れて山を下りようとした。ンだが、二人は一度も村から出たことがなかったもンで、道が分からンかった。迷った挙句、二人は天狗さァの杜(もり)に入ってしもうたンだ。
    次ン朝、帰ってきたンはたづだけだったそうな。ひどく怯えていて、話ァ滅茶苦茶だったが、二人ン身に起こったンはどうもこういうことらしい。

 天狗さァの杜ン入ってしばらく歩くと、兵六は足が痛くなった。我慢しとったけンど、途中で堪えきれンくなって、とうとう木ン根ン腰かけた。たづが兵六ン足を見ると、血まみれでな。それでもよく見てみると、足指ン骨を突き破って小さな蔓(つる)が生えていたンだ。怖がるたづに、兵六はこういったそうな。
「尻が痛ェ。」
たづはもう怖くて怖くて、兵六をまともに見れンかった。
「腹が痛ェ。」
腹ン次は胸、胸ン次は喉、痛みは頭の方へ上がっていった。たづはとうとう逃げ出したンだけど、最後に聞いた兵六ン言葉ァこれだ。
「鼻が痛ェ。」
 たづが振り返りざまにちらと見たンは、木みたいなもンが骨も皮も突き破って伸びている兵六ン鼻だったそうな。
 
 僧侶は黙って聞いていた。兵六の骸(むくろ)はしばらくしてから森で見つかったそうだ。たづの言ったとおり、手足の皮を裂いて蔓が生えていて、顔からは木の枝が何本も突き出ていた。それからというもの、山で迷った村人を天狗様が殺さないように祭をやることになった。年に一度、兵六の死んだ満月の夜に。

――俺は星を見て歩いていたはずだ。月ではなく、星。そうだ、今夜は、新月。

 意識が混濁する。記憶が走馬灯のように流れる。星の夜、山犬の遠吠え、篝火……。

「絶望に飽きんしゃい。」

 不思議な夢、森の中を裸で歩いている。空には無数の星が輝き、木々の隙間から天の川が見える。音はなく、ただ山毛欅(ぶな)の木の呼吸だけが聞こえる。そのまま、何かに導かれるように歩いていく。柔らかく、湿った土の快さ。
 小川が見えてきた。静かに川の中へ歩いていく。水が足をくすぐる。川の真ん中まで歩くと、膝まで水に浸かった。
    満天の星空、遮るものはなにもない。山毛欅の呼吸と、水の流れ、星空と冷たい空気に包まれる、この上ない幸福。身体が満ちていくのを感じる。
 ふと、肌が硬くなった気がした。見ると、へその辺りから鱗が生えている。気がつくと、腕も足もびっしりと鱗に覆われていた。さらさらと水が鱗を撫ぜる。
 ぼとり、と、右腕が抜け落ちた。落ちた腕は流れていった。左手を伸ばすと、ぼとり、左腕も抜け落ちた。なすすべがなくなって、流れていく腕を眺めた。やがて、左足も抜け落ちた。ざぶん、と川の中に落ちる。いつのまにか右足もなくなっていた。
 やっと、一匹の蛇になっていることに気がついた。蛇は、静かに川を流れていく。水に濡れた鱗が、星の光を反射して光る。悪くない。ああ、悪くない気持ちだ。


「おお、もォ起きたか。まだ寝ててンいいが、飯ィ食うかィ。」
「ん、ああ、いただきます。」
 玄米と塩とナズナの汁が出された。食器の音と咀嚼の音だけが響く、静かな時間。朝の空気は少し冷たくて、僧侶は今しがた見たばかりの夢を思い出していた。静かな森の小川、満天の星空、蛇になった身体。椀を手に取って汁をすする。ナズナの汁、土の味。玄米をゆっくりと味わって、箸を置いた。
「ご馳走様でした。」
「今日山ァ下りるかい。」
「そのつもりです。」
「大きィ山毛欅ン木ィが何本も生ェてる森が見えたら、引き返せよ。」
「山毛欅の森とは。」
「天狗さァの杜じゃ。」

礼を言い、彼の家を出た。空は青く、鳶が飛んでいる、どこへ行くのだろう。鳶を自分と重ねれば、大地と空とに分かれた自我がそこにあった。半身を求めるように、ふらふらと鳶を追っているうちに、いつしか山道を離れ、山の奥深くへ。
 僧侶は老僧との会話を思い出していた。


山に住む老僧の庵、僧侶は老僧に訊ねる。

不生の仏心とは何か。

老僧は笑つて云つた。

欲望に飽きんしゃい。


 違う。記憶が混濁している。ここはどこだ。今はいつだ。今は昭和四四年……いや平成七年だ。違う違う違う違う。たづと兵六はどこだ。老僧はどこだ。本当に村にいたのか。今朝はどこで目を覚ました。湿った土を歩いていて、天狗様の祭りを見たんだ。ナズナの汁を飲んで、それから蛇になった。

 ここは大きな山毛欅の森。哀れ僧侶は電柱のように立ちすくんでいた。森の広袤(こうぼう)測り難く、スマホもない僧侶には自力で脱出するのは難しいように思えた。僧侶はふたたび老僧との会話を思い出す。
 山に住む老僧に若い僧侶が訊ねた。

        ×××××××か。

 老僧は笑つて××た。

 ××に飽きんしゃい。

・第二章 山犬の飢餓状態における行動および信仰

 山犬は死を感じていた。何も食べなければ、じきに動けなくなる。そして死ぬだろう。これほどまでの飢えを感じたことはなかった。この山で獲物が獲れないということは、これまで一度もなかった。しかし、いまこの山に獣の匂いはない。栗鼠はどこへいった。鼬は、山鳥は、獣たちはどこへ行った。
 ふらふらと沢へ歩いていく。せめて食べ物の匂いさえあれば、気力も残っていたかもしれん。もはや気力もなく、ただ飢えに耐えながら死を待つだけの身体。沢の水を舐める。これが死に水か。
 落ち葉に匂いは残ってないか。木皮を齧った跡はないか。山犬は時折期待をしてみたが、結果はいつだって空しい。いよいよとなると何に噛みつくかわからんな、と笑ってみる。面白くもない。
 この山で、十年生きてきた。匂いを感じないのは、歳をとって鼻が悪くなったせいではないかと思うこともある。しかしこの一年で食べた獲物はどれも、巧妙に隠れて食われまいとしていた。彼らを見つけたのだ、この山犬は。鼻が悪くなったのではない。この山にもはや獣はいないのだ。
 欲に負けて食い散らかしたせいではないかと思うこともある。山の獣を己が食いつくしてしまったのではないか、と。しかし物心ついたとき、山には一生かけても食べきれないほどの獣がいたのだ。肉を食らうは我ら山犬の一族のみ。ここは獣が増えこそすれ、減ることのないはずの山だったのだ。何が起きた。
 獣たちは食われないためにどこか遠くへ行ってしまったのか――それなら匂いでわかるはず。匂いもなく消えてしまう道理はない。山犬は、答えの出ない問いを考えることによって空腹を紛らわせようとしていた。精神によって肉体を凌駕するのだ。食いたいのではない、考えたいのだ、知りたいのだ。
 ここ数年で変わったことといえば、大きな山毛欅の木が増えてきたことくらいだ。しかし山毛欅が何をするわけでもない。むしろ厄介な村の連中が来なくなったおかげで仕事がやりやすくなったくらいだ。無論、いまとなっては村の人間すら恋しく、連中の肉に思うさまかぶりついて、その血を啜(すす)り、脂を嘗めつくしたい衝動に駆られている。ところが山毛欅の木が増えてからというもの、どういうわけか山犬も村に近づくことができなくなっていた。記憶を頼りに行こうとしても、いつも同じところをぐるぐると廻ってしまうのだ。
 この山毛欅が諸悪の根源なのかもしれない。この木々の持つ何か呪術的な力が山から獣を奪い、山村への道を絶ったのだ。山犬は大きな山毛欅の木を見上げた。ごつごつとした肌が、この今にも消えそうな命の小ささをあざ笑っているような気がする。山犬は、悲しさと悔しさの入り混じったような声で吠えた。消えかけた、小さな命の火を、一瞬だけ燃やす。
 そのとき、山犬の鼻を懐かしい獲物の香りがかすめた。山犬はその香りを追う。悩む暇はない。久々の獲物に、山犬の魂が純粋になる。熟練の狩人の経験と勘が、あらゆるものを遮断した。生と死の間(あわい)にある極限の緊張と集中が山犬の肉体を支配していた。風下から気づかれないように近づく。山毛欅の木は狩りにうってつけだった。痩せ細り、骨と皮ばかりになった小さな犬の身体は、山毛欅の木に完全に隠れていた。
獲物は人間だった。獲物氏の頭髪は完全に剃られていた。
「僧か。」
山犬には人間の信仰は理解できなかったが、彼もまた絶対者の存在を確信している生物の一匹だった。
 獲物は、何かを呟きながら歩いていた。山犬はこれまで数えきれないほどの獲物を食ったが、獲物に憐憫の情を感じることはなかった。しかし、今この瞬間だけは違った。山には彼と彼の獲物の他に生物はいない。この獲物も同じように、飢えと孤独に耐えながら歩いているのだ。
 獲物に対して、生まれて初めて慈愛の精神が芽生えた。それはこの上ない感情だった。命の危機にあって、他者の生命を慮ることが山犬の一生のうちにあろうとは。
 山犬は影のように獲物に近づいた。音もなく、気配もなかった。一陣の風が吹く。山毛欅の木が少しだけ、ほんの少しだけ揺れる。山犬は獲物の頸椎に十年の生涯が磨き上げた鋭い牙を突き刺していた。音もなく、気配もなかった。彼は経験的に、この方法が最も獲物を苦しめないことを知っていた。
 山犬は静かに食事を済ませた。肉や血を散らかすこともなく、極めて上品に食べあげた。幸福な食事だった。獲物の臓腑からは、仄(ほの)かに穀物とナズナの香りがした。
 山犬は自身の天命を完了したと感じた。

「山毛欅よ、この欲にまみれた畜生に慈愛の心が芽生えたのはお前のおかげだ。そして人間、お前との出会いもまた奇跡であった。」

この瞬間、全てが美しく、完全だった。
 山犬はこの瞬間を永遠にするための方法を心得ていた。再び沢の水で舌先を湿らせる。それから、綺麗に身体を洗い、泥も血もすっかり落ちたことを確認した山犬は、沢をさらに下って行った。夕焼けが遠くの山を赤く湿らせていて、鳶が悲しそうに鳴いていた。山の木々も夕焼けに染められていて、目の前の谷底もまた美しく輝いている。山犬はこのすべてが大いなる存在の慈愛であることを知っていた。
 目を閉じる。時間を重ねるように。山犬はそのまま谷に飛び込んだ。音もなく、気配もなく。

・第三章 近年の家屋における木材使用とその副作用について

 新宿で京王線に乗りかえる。3番ホームに来たのは準特急京王八王子行き。自動ドアをくぐり、片手で吊革を掴む。もう片方の手で鞄を抱きしめると、ドアが閉まった。電車が動き出す。隣の男の臭い、少し気になる。特別嫌な臭いというわけじゃない。なんとなく気になるだけだ。
 調布で一度降りて、橋本行きの電車を待つ。スマホを見ると、妻からメッセージが届いていた。返事を半分くらい書いて、やっぱりやめてスタンプを返した。猫のキャラクターが「OK」と書かれた札を持っている。娘にせがまれて買ったスタンプだが、考えてみれば使うのは俺じゃないか。フッと吹き出してしまい、きょろきょろと周りを見る。ホームにいる人間は、誰もがスマホを見ていた。アナウンスが鳴る。橋本行きの電車が着くようだ。
 家に帰ると妻が待っていた。
「ただいま。」
「おかえり。あれ、家のヤツきてたよ。手紙。」
「ん、了解。あずはもう寝た?」
「うん。パパ帰るまで待ってるって言った5分後にはぐっすり。」
「なんだあ。待っててくれないのかあ。」
 そう言うと妻は笑った。俺も笑いながら、手紙を手に取る。
念願のマイホームがもうすぐできるみたいだ。なんだろう、こんなに幸福でいいのか不思議になる。
「家、もうすぐ建つみたいだ。」
「予定通りね。」
「ん、そろそろ引っ越しの準備をしようか。」
「今週末はお掃除デーね。あなたにも手伝ってもらうからよろしく。」
 もともと手伝うつもりでいたが、なんとなく会話を終わらせたくなくて、子供っぽく「ええ~」と言ってみた。妻は「当たり前でしょ?」という目でこちらを見ている。
「冗談だよ、ちゃんと手伝うって。」
 そういって俺は風呂に入った。ざぶんと湯船に浸かると、なんだかすべてが溶けていくみたいだ。浴室を包む湯気は、その溶けた何かが蒸発したものなのかもしれない。そんな妄想が楽しい。
 
 郊外に建てた木造二階建ての家、娘は興奮してさっそく探検を始めている。探検に付き合うのは俺だ。妻は買い出しに行った。またあとで呼び出されて僕が行くことになるんだろうな、荷物持ちに。まあいいさ、それまではあずと探検だ。
 あずは小さいころから肌が弱く、少し虫に刺されただけでよくとびひになっていた。でもこの家なら大丈夫だろう。そうだ、荷物持ちに行く途中で小学校に寄ろう。これからあずが通う学校、もう一度見ておきたい。
 
その日の夜はレトルトのカレーだった。なんだかんだ引っ越しは疲れるので、楽に食べられるものになったのだ。あずはもちろん大喜びで、口の周りを汚しながらカレーを口に運んでいる。妻はあずの口をときどき拭きながら、しょうがないなあと言ったりしている。ト翁は「幸福な家庭は一様に幸福だ」と言ったが、その幸福な家庭こそが最も得難く貴重なものなのだと思う。


 引っ越してから一年が過ぎた。相変わらず、日々は忙しくも楽しく過ぎている。妻は広くなった家にまだ慣れないようで、しょっちゅう何かを探している。日ごろから整理整頓をしておけばそんなことにはならないのに、と思いつつも人のことは言えないので黙っている。俺もこの間、パソコンを忘れて会社に行きそうになったのだ。
 あずは小学校でちゃんと友達ができた。親としては嬉しい。ただ、問題はそれが男だということだ。彼の名前は……出てこないな。昨日聞いたばかりだけど。娘に彼氏ができる日のことは覚悟していたが、小学一年生は早すぎると思う。妻に相談したらすごく笑われたのだけど。


 夏の気配、虫の季節だ。あずの肌に気をつけないといけない。もっとも、この家の中は安全だ。この家は特殊なブナの木でできている。なんでも近年木材用に開発されたブナで、近づいた虫をみんな殺してしまうらしい。人間への副作用が心配だが、そういった症状はまだ報告されてないようなので大丈夫だろう。


 ざぶん、と湯船に浸かる。風呂場に木の香りがするのはとてもいい。うまく言えないが、こう、自然を感じる(これも妻に笑われた)。なんとなく、心まで洗われる気分だ。ああ、なんだかすべてが溶けていくみたいだ。浴室を包む蒸気はその溶けた何かが蒸発したものなのかもしれない。


 相変わらず、日々は忙しくも楽しく過ぎている。妻には友達がいっぱいできて、でもそれが男なのが気に食わない。たしか……ああ、名前が出てこない。許せない、殺してやる。娘は山毛欅を開発する企業に就職して、今は山に入っている。ああ、なんだか心まで洗われる気分だ。最近、不思議な夢をよく見る。深い森の中で、俺は裸で歩いている。湿った土が何だか気持ちよくて、夜空の星がきれいだ。しばらくすると、小川に辿り着く。その小川に入ると、なんと俺は蛇になってしまうのだ。
 この話を妻にすると、すごく笑われた。なんだか気の狂ったような笑い方だった。そういえば妻の名前が思い出せない。いや、俺は何ひとつ覚えていないんじゃないか。今はいつだ。ここはどこだ。記憶が混濁している。


「……次のニュースです。住宅などに使われている『虫除けブナ』に強い毒性があることが判明しました。今日午後、×××××社の社長による会見が開かれる予定です。なお、開発責任者の××氏は現在行方不明とのことです。」

・第四章 老僧による結論および今後の展開について

 山の庵に老僧、汚い服には垢と黴(かび)。年輪の刻まれたその身体はいよいよ最期のときを迎えていた。
 老僧はすべてに絶望していた。彼の人生にも、山犬に勝るとも劣らない苦難と美しさがあった。限りなく続く栄光と凋落、喜びと悲しみは、老僧を老僧にしてしまった。混濁する記憶の渦のなかで、意識を遊泳させる。毎晩のように蛇になる夢を見る。自分の名前も、別れた妻の名前も、死んだ娘の名前も、何一つ思い出せない。ついこの間やってきた若者が、山毛欅の木について訊いてきたような気がするが、何と答えたか忘れてしまった。幸い、ここはあの山毛欅が群生している。下山するまでには何もかも忘れてしまっているに違いない。
 老僧にとって、あとはいつ死ぬかだけが問題だった。あの山毛欅を開発したときから、問題はそれだけだ。悪魔と成り下がった己の身の処し方は、自分にとって最も辛く苦しいものにしようと心に決めていた。
 老僧は庵から空を眺めている。一日中、そうしている。日が落ちるころになると、夕焼けの空が山々を赤く濡らしていて、えもいわれぬ美しさとなる。しかし、この美しさを甘受している自分に吐き気がする。老僧は己を罰したがっていた。

 夜になってもまだ、老僧は空を見ていた。いつも夢で見ていたような、否、夢を遥かに凌駕する満天の星空。燦燦たる星屑の光が、己が奪ってきた無数の記憶のように思われて、老僧は罪の意識に押しつぶされそうになっていた。
 そのとき、瞬く星の一屑が火の玉となって流れた。瞬間、老僧の目にはそれが金色に輝く山犬に見えた。老僧の口は思いもよらぬ言葉をつぶやく。

天狗(あまいぬ)、星空を流れる火の聖霊、山に落ちては森の守り神となる。

 不思議なことだが、老僧は金色の山犬に感謝されたような気がした。犬の慈悲深いまなざしが老僧の罪を洗い流し、湯気のように輝く天の川に流し去ってしまった。その夜、老僧は夢を見なかった。


 翌朝、老僧は最後を迎えるために山を下った。途中、遠くの空を飛んでいる鳶が天狗に見えたので、昨晩の礼を伝えた。鳶は一声啼くと、さらに遠くの空へ飛び去ってしまった。もう戻ってはこないようだ。


 村に辿り着いたが、人は一人もいない。まるで村ごと神隠しにでもあったようだ。ただ、この場所はあの山毛欅の群生地のすぐ近くだ。人がいても、正気ではあるまい。老僧は合掌して立ち去った。


 山毛欅の森に入った。この山毛欅は近づく虫を殺す。つまり生態系を破壊するのだ。山毛欅を植えた森からは生物はいなくなる。限りない静寂、奇妙な景色。
 沢が見えた。老僧は水を一(ひと)掬(すく)いして唇を濡らすと、服を脱いで全身を清めた。そして、沢の流れに沿って下って行った。
 沢の先は谷になっていた。まだ日は高く、青空と、深い緑に覆われた山とが美しく輝いている。
目は、閉じないと心に決めた。過去が己を引き戻すから。


老僧は前を向いて、晴れやかな笑顔で谷に飛び込んだ。

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