(小説)存在しない迷宮
どこへでもいけるのに、どこへもいけない気分のまま、町をさまよっている。午後二時、過ぎつつある昼。コンクリートで舗装された道路が、黙って車を走らせている。路地の木々は住人に都合よく剪定されたみじめな姿で立っており、まさしくそれは僕自身のパロディに他ならなかった。
空の青みがもう少しくすんでいたら、ここまでみじめな気持ちになることもなかったのかもしれないが、酷いことに今日もこの町は晴天だった。太陽の光は僕の不在の身体を透過して、影も作らない。ただアスファルトを灼き続けている光源。
町を歩いても僕の方を見る人はいない。これは儀礼的無関心と呼ばれる都市のマナーで、過密になってしまう人口密度のなかで心理的な距離を確保するために、あえて他者に対し無関心を装うというものだった。町を歩く人間の視線は足元に注がれ、足音までもが鬱々とした響きを伴っている。そんな気がする。
町を歩けば、偶然知人に出会うこともある。狭い町ならその確率も高い。いま遠くから僕の姿を認め、近づいてきた男はクロダである。クロダと出会ったのはもう十年も前になる。僕もクロダも、もう十年もこの町にいる。
「よお、ヤマザキ。お前、やっぱりまだこの町にいるんだな」
「そりゃそうだろ、どうやって出るんだ」
「そんなの簡単だろ。その調子で同じ方向へ歩いていけばいいのさ。同じ方へ歩いていけば、いつか町の境に出る。そしたら、そこをぴょおんとひとっ飛びしてさ、そのままどこへでも行けばいい」
「言うだけなら簡単だけど、どうやったって町の境に出られねえ。ぐるぐる町を回っても、またおんなじ交差点に出てきちまうんだ」
「ははあ、お前さん、迷ってるね」
「ああ、迷ってるさ。この町はまるで巨大な迷宮みたいに、僕らを閉じ込めている」
「なあ、ヤマザキ。迷宮ってのは、どういう場所だい?」
「はあ? そりゃあ、出ることのできねえ、でかい迷路だろう」
「ふふ、そういうことさ」
「どういうことだよ」
「つまりだ、そこが迷宮になるのはそいつが出ようとするからなんだ。出ようとしなけりゃ、そこは家と大して変わらないんだぜ」
「つまり、僕がこの町を出ようとするから……」
「この町は迷宮になっているのさ。あんたが出よう出ようともがくその身ぶりが、奇しくもこの大迷宮を生み出しているわけだ」
「馬鹿言え、じゃあ出ようとしなけりゃいいってのかよ」
「投げりゃいいじゃねえか、運によ。あるいは神様に祈るのも悪くない。いずれにせよ、出られるかどうかは神様の機嫌次第ってわけだ」
「お前の話はいまいち要領を得ねえな。つまりどうすりゃいいんだ?」
「その性急さが閉塞感に繋がってるのかもしれんぜ。まあ適当に歩きゃいいじゃねえか。その調子でよ」
「はあ、なんとも無意味な会話だったなあ」
「意味を求めちゃいかんよ。さっきの話を忘れたのかい。出口を求めるからそこが迷路になるのさ」
僕はクロダに手を振って歩き出す。しかし同じ方角へ向かって歩いているはずが、気づくと行き止まりに当たっていて、曲がったり引き返したりしているうちに日が暮れてきた。街灯に虫が集まるころには、僕もすっかり眠くなっていて、ふらふらと知らない人の家に入って寝た。知らない人は余計なことを言わないのがいい。クロダの話は寄り道ばかりだ。無駄がないのがいい。無駄は良くない。
無駄? 僕以上に無駄な存在などあるものか。不在であるということは無限の他者であるということだ。迷宮を巡りつづけるだけの不毛な精神。知らない人の家は居心地が良くて、しかしそこにおいて自分が不在の他者であるということが悲しかった。
眠っても眠らなくても朝は来る。起きては隣人宅の壁をすり抜けて、また道を歩き始める。今日もまた町から出るための彷徨。いつまで繰り返せばいいのだろう。この町は昨日と同じく残酷なほどの晴天で、雲一つない青空が上から覆い被さっている。僕はふらふらと歩き続けるが、その不毛な行進は終わる気配がない。あの家の柵を右に曲がると大通りに出る。次の交差点を左に曲がると駅の方だ。駅の方へ向かって歩いていると行き止まりがあり、右へ行っても左へ行ってもまたさっきの交差点に戻ってきてしまう。町の境に辿り着けないことがもどかしく、しかし「町の境の向こう側」への期待はますます膨らんでいく一方だった。
来る日も来る日も歩いた。同じところをぐるぐるぐるぐる。何度曲がっても同じ交差点に出てしまい、どうしても町の境へ行くことができない。しかし町の人間は何不自由なく生活している。彼らは町を自由に出入りしているようで、道に迷うということもなかった。この町で、ただ僕だけが迷宮のなかにいた。
今日もまた、迷宮のなかを彷徨。するとまたクロダに会った。
「よおヤマザキ。お前やっぱりまだこの町にいるんだな」
「そりゃそうだろ。どうやって出るんだ」
「そんなの簡単だろ。その調子で同じ方向へ……」
「いい。もう聞きたくない」
「なんだ。今日はご機嫌斜めじゃないか」
「もうずっと迷ったままなんだ。気が狂いそうだ」
「俺たちが狂う? そりゃないだろ。狂うってのは生者の理屈だ。俺たち幽霊にはそもそも正気という概念がないんだから」
「幽霊だということは理解しているさ、頭では。問題は、この町から出られなくて、それがもうずっと続いていることなんだ」
「あるいは、ここは天国なのかもしれんぜ。つまり、ここがゴールで、その先はないのかもしれん」
「もしそうだとしたら、地獄の方がずっとましだよ」
「なんだかお前さんの話を聞いていると、可哀そうになってきたな。よし、ひとつ町の境まで案内してやるよ」
「は? お前、町の境に行けるのか?」
「ついてきなよ」
僕は困惑しながらクロダについていく。僕たちは壁をすり抜けながらある方角へと進んでいく。
「そういえばお前さん、いつも道なりに歩いていたが、あれはなぜかね? 僕らはこうして壁をすり抜けられるのに」
「迷路を抜けるには、迷路のルールに従わないといけないと思ったんだ」
「お前さん、幽霊で正解だったかもしれんな。それで人間として生きていくのは、なかなか辛いものがあると思うぞ」
「幽霊でも、僕は人間のつもりさ。町の人が僕の方を見ないのも、全部儀礼的無関心のせいだし、壁をすり抜けるのだって、僕が突然超能力に目覚めただけかもしれない」
「お前さん、不器用にもほどがあるぞ」
僕とクロダはいつもの交差点に辿り着いた。ここから先へはいけない交差点。僕らは交差点の真ん中に立っていて、車が次から次へと僕らの身体をすり抜けていく。
「ここだよ。ここから先へ行けないんだ、いつも」
「ああ、俺たち地縛霊はここから先へは行けないことになってる、普通はな」
そう言うと、クロダは信号を待っている一人の老婆の方へ歩き出した。僕はクロダについていく。不在の影が二つ、連なって交差点を歩く。老婆は少なくとも八〇歳は超えているようにみえた。黄色のブラウスに薄紫の長いスカートを穿いた彼女は、ぼんやりと交差点の方を見ている。クロダは老婆に近づくと、いつもの乱暴な口調で話しかけた。
「婆さん、こいつを町の境に案内してやってくれ」
「……」
「おい、婆さん、聞いてんだろ、おい」
「……来る」
「は?」
「……来る」
「何が?」
「来る」
「だから何が来るんだよ」
「……」
「おい、話を……」
「行っちゃった」
「だから何が行ったんだよ」
「もうおしまい。あたしゃ帰るよ。自分らで何とかしな」
「ちっ使えねえな」
クロダはあからさまに舌打ちすると、きょろきょろと辺りを見回して「たしか、あっちだったかな」などと呟きながら歩き出した。
二匹の幽霊が存在しないはずの迷宮を歩いている――それは不在の影、どこへも行けない地縛霊。クロダは苛立ちを隠そうとしない。僕もクロダと同じように苛立ってみる。クロダが歩けば、僕も歩く。クロダが止まれば、僕も止まる。クロダが転んだら、僕も転ぼうとさえ思っている。
「くそ。もうだめだ。わからん」
「なあクロダ」
「なんだ?」
「迷宮は、出ようとするから迷宮になるらしいぜ」
「なんだ、ケンカ売ってるのか?」
「違うよ、もうやめようってこと」
「いいのか?」
「今日はもういいや」
「そうか。じゃあ今日はもう終わりだ。解散。まあとにかくあの婆さんを見つけたら頼んでみるこった。機嫌が良けりゃ、町の境に連れていってくれるはずさ」
「なあクロダ、結局町の境ってのはどんな場所なんだ?」
「ああ」
クロダはめんどくさそうな顔で言う。
「なんもないよ。なんにも」
「そうか」
「じゃあな、また会ったらよろしく」
「ああ、またな」
どこかへ去っていくクロダの背中を見ながら、どこへも行けない僕は途方に暮れていた。僕らはこのまま、終わらない明日を繰り返していくことしかできない。自殺もできないし、狂うこともできない。
気づけば、夕日が雲を深い青紫に染めていた。夕日を眺めているうちに、僕はふとある考えに至った。何もない迷宮のなかで何もないらしい町の境を探すというのは、実に不毛なことだ。しかも町の境が見つかってしまえば、残るのは本当に何もない無限の時間だけだ。
そう、少なくとも今、僕の手のなかにはいくつもの謎がある。それを抱えている今この瞬間――これは、実はとても幸福なことなのだ。
僕は夕日の方へ向かって歩き出した。今日もまた、謎を抱えたままで彷徨。
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