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偏った姿勢でもまっすぐ歩けるけど

 先日、知人に誘われて「歩く」をテーマにしたパフォーマンスを観に行った。その感想は後日ちゃんと書くとして、今日は別の「歩く」話をしたい。

 僕が学部生の頃に所属していた某思想研究サークルの機関紙に、自分の若書きが載っている。若書きと言っても3年前の文章なのでまだ少しだけあったかい若書きだ(コンビニから家まで持って帰ったファミチキくらいの熱量をイメージして欲しい)。そこに「荒野を裸足で歩く」という文章がある。内容を要約すると

我々が認識のメスで切り分けている世界は、本当は不可分な総体である。その認識のメス(原文では「『環世界』の膜」)はインターネットその他様々な社会的要因によって汚染されてしまうので、我々は認識の外部からやってくる「芸術」によって自らを浄化し、総体としての世界を認識し直さねばならない。つまり我々は一定の見え方のもとに留まるべきではなく、定期的に世界の見え方を浄化する必要があり、この定住しない生き方を「旅人」に、あらゆる認識のリセットされた世界を「荒野」に喩え、我々は「荒野を裸足で歩かねばならない」ということを主張している。

ふうん、という内容だ。まあ定期的に自分の感覚チェックしようぜって話だから特に極端なことを主張しているわけではない(僕の文章はいつだって過激に見えて穏健だ)。ただ、この辺の感覚が身近な人たちと共有できているのかな、というのは気になる。気になったので、深夜に文章を書いている。

 そういえば以前、少しショックなことがあって知人に電話したときに「そうやって自己批判している姿が実に左翼らしい」と言われたことがある。「まあ左翼だからな」なんて思いつつ「僕の自己批判の速度はなかなか早い方なのかもしれない」と思っていたような記憶がある。多少なりともスポーツ経験のある人にとっては当たり前かもしれないが、上手くいかない状況でどれだけ早く修正できるかが勝負事では大事だったりする。

 で、ここからが本題。世の中の人は普段、歩き方ってどのくらい気をつけているのだろうか?

 歩き方は飯の食い方と文字の書き方に並ぶくらいには、自分で修正するのが難しい習慣のひとつだと思う。「歩く」動作には、体重のかけ方、足の内側と外側、前と後ろの使い方、膝の曲げ方、股関節の曲げ方、腹筋と背筋のバランス、腕の振り方、首の据え方など変えられる要素がとにかく多い。「最近自己批判足りないな~」なんて感じている人がいれば、ぜひ自分の歩き方をチェックしてみて欲しい。姿勢のついでに、思想の偏りが見つけられるかもしれない。

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