ヤギとウマ――丘の上で草を食む
1.ヤギとウマ
先日、市内でヤギを飼っている友人のK君に会った。K君は大学3年の時に「何か面白いことがしたい」といって友人と2人でヤギを飼い始めた人で、しばらくチリにいたと思っていたがいつの間にか町に帰ってきていたらしい。彼が最初に飼っていたヤギは死んでしまったが、その子供は今も生きており、K君は何人もの後輩を巻きこんで飼育を継続している。飼い始めた時は僕も手伝っていたのだが、大学院に入ってからはほとんど手伝っていない。しばらくぶりにヤギに会いたかったので、彼と一緒にヤギのところへ行くことにした。
かつては農家の方の土地を借りていたが、いまは林業を営んでいる方の敷地を借りているようで、K君と一緒に小高い丘の上に行くと、ヤギがむしゃむしゃと元気に草を食んでいた。なかなか見晴らしの良いところで、ヤギも気持ちよさそうに太っている。草を食んではコロコロと糞を転がし、満足げにまた草を食うという生活。羨ましいことこの上ない(そういえばトーマス・トウェイツは本当にヤギになったのだっけ)。ひとまず元気そうで安心した。それからK君と少し話をしたのだけど、そこで大変面白い話を聞いたのでこうしてnoteを書いている。
さっきも言った通り、現在ヤギは丘の上に住んでいる。ただ、もともとは馬小屋の横の、柵で囲われたところに住んでいたらしい。この柵はいわゆる電気柵と呼ばれるもので、三本のワイヤーが張られたものだ。ここに触れると少々強い電気が流れるようになっている。さて、件のヤギは一時ここに住んでいたのだが、彼の自由精神は電気柵を許容し難かったらしく、何度も脱出を図ったらしい。そしてトライ&トライ、エラー&エラー、たび重なるPDCAサイクルの回転によって彼(ヤギ)はついに電気柵の弱点を発見した。電気柵に流れる電流には一定の周期があり、その隙をついて脱走に成功したというのだ。自由万歳!(すぐに捕まったらしい。ああ無情)
その一件は敷地の主を怒らせた。ヤギは首輪をつけられて丘の上に移送され、今に到るというわけだ。僕はこれを聞いて「しかし、なかなか賢いヤギじゃないか」と言った。するとK君はこう返したのだ。
――確かにヤギも賢いけど、これがウマになると脱走を図ろうともしないそうだ。電気柵のワイヤーが一本でもあると、ウマは『そこから出てはいけない』ということを理解して留まるらしい。
それから彼は「どちらが賢いとは一概には言えないけどね。ただ俺はヤギ派」と付け加えた。
2.二つの知性と感染症
これは大変示唆に富む話だと思う。「頭の良さ」にも種類があるということが明快に示されているからだ。電気柵から逃げるヤギの知性は具体的な運動によって現状を変革せんとする能動的知性であり、これを「ヤギ的知性」と呼ぶことにしよう。対して電気柵から逃げないウマの知性は現状を受けいれ、管理体制に自ら順応することで安定的な生存を図る受動的知性であり、こちらは「ウマ的知性」と呼びたい。ヤギ的知性とウマ的知性は革新―保守という思想的対立のパロディであると同時に、ある一つの残酷な事実も示している。
ヤギはK君の所有物であり、彼は少なくとも今のところはこれを食べるつもりはないようだ。一方で敷地の主が所有するウマは、もしかすると馬肉になってしまうウマなのかもしれない。そしてこの運命は、たとえヤギが従順に柵の中にいようが、ウマが決意して柵から脱出しようが、変わらないのである。ある個体の知性がいかに優れていようと、それは外部から物理的に破壊されうる。哲学者の千葉雅也は『意味がない無意味』のなかでカトリーヌ・マラブーの「可塑性 plasticite」という概念を、意味の多義性(=〈意味がある無意味〉)を破壊しうる物質性(=〈意味がない無意味〉)として説明しているが、ヤギとウマの行為の多様性(ここでは脱走をする―しないの二通りだが)は人間が物理的に下す処遇によって破壊される、つまり行為の選択とその結果とが切断されるのだ。ヤギもウマも決してこれを知りえないことは、残酷なのか、あるいは幸福なのか。彼らの前にあるのはただ電気柵とその向こうの景色だけである。
我々もまたヤギ的知性とウマ的知性を持ちながら物質的な社会の中に生きている。我々は自分の知性がヤギ的かウマ的かを知り、選ぶことはできるかもしれないが、実際に自分がヤギなのかウマなのかを知るすべはない。我々はどのように行動するべき、あるいはどのように行動したくなるだろうか。ナンセンス極まりないこのような問いを発してみたのは、現在の感染症対策における外に出る―出ないという二択がまさしくこのヤギ―ウマ的知性の試金石となっているからだ。コロナウイルスという招かれざる客人は外に出る者にも出ない者にも偶然に感染する。また政府の自粛要請に従って3月から営業を止めていた店々は、その政府からろくな保証もないなかで苦境に立たされている。しかし営業を止めていなかった店が安定しているわけでもない。それまで「こう生きれば上手くいくはず」とされていた規範、すなわち蓋然性は招かれざる客人の来訪によって水泡に帰してしまう程度のものだったのだ。つまり我々は偶然性にすっぽりと包まれた状態で、極めて狭い、ほとんど近視眼的な視界の中にぼんやりと見える蓋然性を頼りにしていたに過ぎない。
ヤギ的知性を発揮して外に出ても、ウマ的知性を発揮して家に居ても、誰が感染するかは偶然に委ねられている。消毒液やマスクと言ったなけなしの蓋然性にすがったところで、実際に罹るかどうかは誰にも分らない。つまるところ、不確定な未来に向かっていくとき、我々の移動手段は二つあるということだ。すなわち、ヤギに乗っていくか、ウマに乗っていくか。
3.丘の上で草を食む
しかし、ここで考えたいのは現在のヤギの状況だ。確かに首輪をはめられ、行動は制限されているが、しかしヤギの見ていた景色はまったく変わったのだ。もちろん、これはあくまで結果論に過ぎない。ヤギは同じ場所でつながれていたかもしれないし、場合によっては(K君のヤギだということを忘れれば)処分されていたかもしれない。それでも、彼は脱走を試みなければ決して得ることのなかった丘の上の景色を望んでいる。
ここで私は「だからヤギ的知性こそが幸福への道なのだ」という気はさらさらない。ただ、我々は偶然性のなかでただ無為に手足を放っていることしかできないわけではない。我々は蓋然性に賭けることができる。ヤギはヤギなりの、ウマはウマなりの望む未来に向かって、それとは無関係な行為に自らを賭けている。ある意味、未来に向かって行為を選択することは魔術そのものなのかもしれない。
最近、K君はヤギを撮って映像作品にしたいという野望を抱いている(ウチのビデオカメラと三脚、それからモバイルバッテリーは彼に貸している)。ヤギがむしゃむしゃと草を食み、コロコロと糞を転がす映像が撮りたいみたいだ。けっこうなことである。K君のようなヤギ的人間をみていると、存外自分はウマの方なのではないかと不安になる。常に新鮮な景色を望みたいものだが、知らず知らずに安全な道を取ってしまう臆病さが自分の中には確実にある。
また別の日にK君とヤギのところへ行った。そのとき戯れに、ヤギの背中を撫ぜてみた。やはり少し太った気がする。丘の上の風は気持ちよく、草は青々と繁っている。こう気持ちがいいと、悩んでいるのも馬鹿らしくなってくる。そうだ、草を食んで、コロコロと糞を転がして、また草を食んでいればいいのだ。糞からはまた草が生えるだろう。世界は循環している。自然の循環は偶然性のさらに外側にあるのかもしれない。この生の魔術も、それほど不毛な賭けではないのかもしれないと思った。
ヤギは丘の上で草を食んでいる。僕はとりあえず、気まぐれに抗ったり従ったりと、ヤギとウマを乗り換えながら気長に賭けを楽しもうと思う。存在の賭け=世界の遊戯(この言い回しは西村清和『遊びの現象学』を参照した)は死ぬまで続くのだから。
参考文献
トーマス・トウェイツはこの人です
物理的な破壊の可能性に関して参照
存在の賭け、世界の遊戯に関して参照
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