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“いま、「知識」ではなく「知性」を”の記事に思うーまたしても日本の学校教育、大丈夫?

2022年6月12日付 朝日新聞に掲載された上記タイトル「いま、『知識』ではなく『知性』を」の記事に強く惹かれました。書いた人は、文化人類学者の今福龍太氏。

記事を要約すると(かなり私の独断と偏見による)ーーー

高校の「国語」の内容が、「直接役に立たない」文学作品ではなく、社会で「役に立つ」実用文を学ばせる方向にシフトしたことに触れて、「知」とは何かと問うている。

「知」は、我々の社会を創造していく真の力であるが、その時の「知」とは「知識」(knowledge)ではなく、「知性」(intelligence)であるはずだと述べている。

「役に立つ」知識=情報は、その社会に有用か否かの基準で判断され、実利的な目的のために使われ、体制に組み込まれ、それを支える力となるだけである。そのような「知識」では、人間の命や自然の摂理=自然を支配する深淵なる法則と言ったらいいか、については学ぶことはできないのだ、と。

過酷な歴史の中に置かれた人間の命や尊厳について、作家が壮絶な想像力で書き上げた文学にこそ、その知性が宿るのだと。ナポレオン戦争下の人びとの心を共感を持って描いた「戦争と平和」や独ソ戦の極限状態に置かれた人間の尊厳を描いた「人生と運命」(まだ読んでいない🥹)などの作品がそうであるように。文学的知性によって、深く思考することができ、それが社会を創造する力になるのだ、とーーー

今日の我々は、あまりに早急に成果を求め、目の前の実利に心を奪われ過ぎていないだろうか。文科省の国語教育の実用的内容への改編も、その延長線上にあるのだと思う。この内容は、アメリカのLanguage Art (日本の国語に相当するだろうか)の授業を想定しているように思える。

Language Artは、言語運用のスキル、テクニックを中心に学ぶ。だから“Art”と言われる所以だろう。文章を一定のルールに従って書く、説得的なスピーチの仕方などを学ぶとか。

これまでの日本の国語教育は、このような言語教育ではなく、情緒的・道徳的な中途半端なアプローチーではなかったか。さらに、どの学年にも推薦図書<誰がどのような根拠で選定したのかは分からないが>を読ませ、読書感想文を書かせる。だが、それは書くことを通して文章力を向上させることが目的なのではなく、その共通体験を通して生徒の心に同質の感情や意識や記憶を育むことが目的だったのではないか。

だがそんな外国の教育内容の一部を切り取って、日本の教育に安易に導入するのはいかがなものか。アメリカの高校教育が日本と根本的に違うのは、学年単位ではなく、生徒個人の能力や興味に従って組み立てられていることである。

例えば、数学だけでもいくつものレベルがあり、生徒は自分の学習到達度、能力、興味などに応じて選択する。同じ学年でも基礎的な数学を学ぶ生徒もいるし、相当高度な数学を学ぶ生徒もいる。学年を超えた選択もできる。英語(日本で言う国語)教育も同様、ほかの全ての教科もそのような立て付けである。

もっと言うと、AP(Advanced Placement)と言って、大学の授業を先取りして高校で選択できる。高校にいながら大学の授業が受けられるし、高校の先生が大学の授業を教えられる体制が整っているのだ。

そのように根本が異なる教育体制や内容からパッチワークのように一部だけを寸借しても、仏造って魂入れずになりはしまいか。

余談になるが、いい例が日本のAO(Admissions Office)入試である。これもアメリカの入試システムを真似たようだが、本家本元とは似て非なるものである。日本のシステムはすごくeasyだ。試験会場で筆記試験をしないで済む入試方法ぐらいな受け取り方ではないだろうか。

本家のシステムは、もっと確固として確立されたものだ。まず、高校の3年間(地域によっては4年間)の全教科の成績がポイントで算出される。これはGPA(Grade Point Average)といって、どの大学からも要求される。このGPAのポイントで、出願できる大学も決まる。

そして、先ほどのAP科目は、College Boardという非営利団体の行うテストを受け認定されると、GPAに加点される。高校の科目より高いポイントが得られる。もちろん大学では、その科目を履修したことが認められる。余裕のある生徒は、このAP科目をたくさん受け、GPAのポイントを上げ、大学での履修科目を減らすことができる。このGPAは、大学教育の中でも継続され、生徒・学生にずっとついて回るシステムなのだ。

それから、SAT(Scholastic Assessment Test) 共通テストの成績。これは年に何回も受験できるので、一番良かったものを提出できる。が、この成績次第で出願できる大学も限られる。このテストもCollege Boardにより運営されている。

また、アカデミックな分野の他に、どのようなコミュニティーサービスをしているかとか、スポーツ、特技などについても問われる。Liberal Arts系の小さな大学では、決められたトピックについて、エッセイを課すところもある。これをしっかり読むために人材を雇ったりもしているそうだ。

また、AOスタッフが世界中の高校を回り、優秀な生徒をリクルートしたりもしている。「優秀な生徒」とは、年ごとにターゲットが変わるらしい。ある年は理系の生徒、ある年はそれと異なる能力を持った生徒という風に、またアフリカ系、アジア系と多様な人種構成になるようにも配慮しているとか。

“白人だけの中流層の大学“のイメージがつくことを避けたいらしい。なによりも学生が等質化することで、大学からダイバーシティが失われることを恐れているからだろう。また、私立大学だとプロのfundraiserが世界中にいて寄付を集め、大学の基金を維持している。

これらのことーもっと他にもあるがーを考慮もせずに、うわべだけ、形だけ真似ても上手くいかないし、機能もしないだろう。

閑話休題。
そもそも文科省が国語教育で新たに導入しようとしていることは、社会科でも理科でも行えることである。言語運用能力は、全ての教科で共通に必要とされている能力なのだから。各教科がその能力向上に向けたアプローチをすればいいだけなのに。

教育内容まで変えてしまって。教育課程や内容が頻繁に変わり、現場の先生もさぞ困惑していることだろう。混乱は国語教育にとどまらず、社会科教育でも起きている。日本の学校教育は迷走しているようだ。知識だけで知性のない人間がこんな混乱を引き起こしているのだろうか😜

今回の改編には、文学者からの批判も大いにあるようだ。冒頭の記事が言うように、文学的知性こそが、今の社会に必要なものなのだとしたら、この改編でそんな知性を養うチャンスをみすみす捨てようとしているようなものではないか。むしろ、今までの道徳的志向の強い教育内容を改め、文学的知性を養う国語教育についての議論を深めた方がいいのではないだろうか。

知識だけは一杯詰まっているが、知性のかけらもない人間が、今後あふれそうだ。そもそも学ぶ側の生徒はどう考えているのだろうか。生徒の考えはいつもないがしろにされている気がしている。







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