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掌編小説

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2020年6月の記事一覧

翼を拭く

翼を拭く

 あなたの背中には翼がある。
 それは大きな翼だった。今日みたいな雨の日は、差した傘からはみ出してしまうほど。だから、濡れた翼で帰ってくるのである。
「ただいま」
 玄関で佇むあなたの両翼からは雫が滴り、足元には水たまりが生まれている。水面には、抜け落ちた羽根が数本浮かんでいた。
「おかえり」
 私はタオルを手に出迎える。あなたはいつものようにくるりと背を向け、玄関の上がり框に腰を下ろした。大きな

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彼女は怠け者

彼女は怠け者

 僕の彼女は怠け者だ。
「明日から本気出すから」
 なんて言いながら、ソファで寝転がり、窓から見える青空を一日中ぼんやり眺めていたりする。
 一緒に暮らしている僕は、彼女が脱ぎ捨てたシャツを拾っては洗濯をし、お腹が空いたと言えば料理を用意し、床に落ちた食べカスを掃除している。
 先月までの彼女は、怠け者ではなかった。
 料理も洗濯も掃除も何もかも完璧にこなし、仕事だって一生懸命。だけど、いつも時間

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さらわれた帽子

さらわれた帽子

 風が僕の帽子をさらっていった。空高く昇り、やがて姿を消してしまう。辺りを探したけれど、見つけることは出来なかった。
 帽子は、以前妻から誕生日にもらったものだ。それから数年、散歩に出かける時は必ず身に着けていた。かなり愛着があったので、残念で仕方がない。
 家に戻った僕は、妻に帽子が風で飛ばされたしまったことを打ち明ける。
「せっかく君からプレゼントしてもらったのに、ごめんね」
 すると妻は、怒

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どら焼きに挟まれて

どら焼きに挟まれて

 壮介は繊細な男だ。
 店員が客にクレームをぶつけられている場面に遭遇すると、自分が怒られている感覚になり、お腹が痛くなる。
 美容院では、わがままを言えば迷惑になると考え、美容師にお任せしてしまうので、髪型はいつも同じになってしまう。
 悲しい映画やドラマを見ると、まるで自分の事のように涙を流し、残虐なシーンがあれば、恐怖のあまり寝込んでしまう。
 そんな壮介と一緒に暮らし始めて一年経つ。初めは

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究極のトースト

究極のトースト

 高性能のトースターを購入した。
 まずは本体上部の給水口に水を注ぐ。第一段階で高温のスチームを庫内に噴出し、パンの表面だけを軽く焼いて、中に水分を閉じ込める。続く第二段階は、庫内の温度を三段階で自動制御することにより、パンの内部をふっくらと過熱する。このような独自の仕組みによって「究極のトースト」が焼き上がるらしい。
 お気に入りのベーカリーで購入した食パンを、いつもより厚めに切り、高性能トース

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ミスターマスクメロン

ミスターマスクメロン

ミスターパイナッポーはこちら

 僕はメロンが好きだ。味ではなくフォルムが好きだ。
 網に覆われた表皮は、何かに囚われた者の悲哀を連想させるし、「T」型のヘタは、この薄汚れた世界への大いなるメッセージなのではと考えさせられる。
 奥深い。これほどまでに奥深い果実が他にあるだろうか。
「メロンが好きだと聞きましたので、よかったらお召し上がりください」
 ある日、僕は、友人の奥さんからメロンをいただい

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ミスターパイナッポー

ミスターパイナッポー

 そのパイナップルとの出会いは運命だった。
 スーパーの果物売り場に並べられていた一つのパイナップル。これまでの僕は、パイナップルを食べたくても、すでに切り分けられた果肉のパック詰めを選んでいた。かさばるし、切るのが面倒だからだ。
 しかし、今回の僕は違った。そのパイナップルに目が止まった瞬間、稲妻が全身に走った感覚に陥り、動けなくなってしまったのである。
 山積みにされた中の、一つのパイナップル

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ゆで卵の殻

ゆで卵の殻

 ゆで卵の殻がきれいに剥けた。つるりと剥けた。艶めくゆで卵の輝きに、思わず見惚れてしまう。
 古い卵の方がきれいに剥けると聞いたことがある。そういえば、この卵は賞味期限が迫っていた。
「賞味期限」
 私はその言葉を声に出してみた。

「あの人はもう賞味期限切れだからね」
 元上司の言葉が蘇る。
 長く勤めている先輩社員をそう言って鼻で笑うのだ。上司の言葉に合わせて笑うのは決まって新入社員だった。彼

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脱ぎ捨てられたシャツ

脱ぎ捨てられたシャツ

 床に脱ぎ捨てられたシャツ。殺人現場みたいなポーズ。
 何度言っても直らない。脱いだシャツは洗濯機の傍にあるカゴに入れてって言ってるのに。
 きっと急いでいたのだろうなと、毎回許しながらシャツを拾う。
 私は彼と一緒に暮らし始めてから、許すという事を学んでいる。

 許せない人がいる。私と母を深く傷つけた父だ。
 あの日以来、会っていない。どこで何をしているのかも知らない。
 父と別れた母が歯を食

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