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彼女は怠け者

 僕の彼女は怠け者だ。
「明日から本気出すから」
 なんて言いながら、ソファで寝転がり、窓から見える青空を一日中ぼんやり眺めていたりする。
 一緒に暮らしている僕は、彼女が脱ぎ捨てたシャツを拾っては洗濯をし、お腹が空いたと言えば料理を用意し、床に落ちた食べカスを掃除している。
 先月までの彼女は、怠け者ではなかった。
 料理も洗濯も掃除も何もかも完璧にこなし、仕事だって一生懸命。だけど、いつも時間に追われていて、いつも走っていて、いつも焦っていて、いつも苛ついていて、いつも何かに怒っていた。
「仕事、辞めて来たの」
 人一倍責任感が強く、真面目で、負けず嫌いの彼女の口から、その言葉を聞いた時、僕は少しほっとしていた。
 彼女がこのままのペースで仕事を続けていたら、いつか壊れてしまうのではないかと心配だったから。
「私、しばらく、怠け者になるね」
 そう宣言した彼女は、家事を一切しなくなった。
 嬉しかった。初めて、僕を頼りにしてくれているのだと思ったから。料理も洗濯も掃除も、僕は元々好きだった。完璧主義の彼女は、自分のやり方でやらなければ気が済まないらしく、僕に任せてくれなかっただけ。
「ごめんね」
 家事に勤しむ僕を見て、彼女は謝った。
「謝ることないよ」
 僕は首を振る。
「こんな怠け者、嫌いになった?」
「これまで頑張り過ぎたんだから、怠けたっていいじゃん」
「今度こそ、頑張るから」
「急がなくてもいいって」
「あなたに甘えてばかりじゃ、私、どんどん、自分が嫌になっていくよ」
 彼女が急に泣きそうな顔をするので、僕は慌てて
「じゃあさ、僕、美味しいコーヒーを淹れられるように、勉強するよ」
 なんて、口走った。
「え?」
「コーヒー好きでしょ?」
「好きだけど……」
「日本一、いや、世界一、美味しいコーヒー豆を見つけて、上手に挽いて、上手にドリップする。それくらい、特別なコーヒーを淹れられるようになる。そして、君に飲んでもらう」
「かなり時間、かかりそう」
「時間かかるけど、勉強する。君が本気を出すのは、僕が淹れた、特別に美味しいコーヒーを飲んでからでも遅くないんじゃない」
 彼女は、そんな僕の説得に、ゆっくりと頷いた。
「わかった。じゃあ、待ってる」
 僕は、彼女と並んで特別に美味しいコーヒーを飲む日を想像する。陽だまりのように柔らかくて暖かい未来。そう遠くない。

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