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「光る君へ」のその後をめぐる宇治陵巡礼  その5 「歓喜の歌」


さて、藤原基経の陵墓とされる36号は、ここ許波多神社の境内にある。じつはこの「許波多神社」というのは少し離れた場所にもうひとつある。わりと近くに同じ名前のふたつの神社があるというのは考えてみたらかなり奇妙な状況なのだけど、これも住んでいたころはあたりまえのように思っていたなあ。
いまからもう7年前の2017年にENJOY KYOTOで宇治特集をやったときに、この長年気になっていた謎を解くべく取材したことがあった。窯元の朝日焼さんやお茶の通圓さん、ミュージシャンの岡崎体育さんといった錚々たるメンバーに並んでこの許波多神社がフィーチャーされたのは、そんな個人的な思いがあったわけなのだ。

2017年3月配布のENJOY KYOTO ISSUE 22でふたつの許波多神社を紹介した際の紙面。窯元・朝日焼、お茶屋さんの通圓、高級抹茶農家の辻喜、早くから海外展開されてた松北園、県神社、岡崎体育というちょっと他にはないラインナップだった。

当時取材してみてわかったのはけっきょくのところ、よくわからない、ということだった。五ヶ庄のほうの許波多神社で聞いた話では、ここの近隣にあった田中神社との合祀もあったそうだがそのへんの経緯もよくわかっていないみたいだった。今回訪れた宇治陵36号がある木幡のほうの許波多神社は立派な神楽殿風の拝殿が印象的な神社。取材当時は宮司さんが体調を崩されていて後継者さんもおられず取材が叶わなかった。電話の雰囲気ではもしかしたらこのまま後継者がなく廃れていくのではと危惧していたが、近年は氏子さんなのか地域のボランティアの方なのかが活発に活動されているようで、お正月には初詣に多くの人が列をなして並んでいる光景を目にするようにもなっている。そうした経緯なんかについても、またいつか取材できたらと思っている。

石造りの鳥居と神楽殿風(床板はない)のかっこいい拝殿。奥に本殿が見える。
かつては砂利道だがた整備された。お正月にはこの参道まで初詣の人が並ぶ。

いっぽう五ヶ庄のほうの許波多神社には2017年当時に取材させていただくことができ、くわしいお話を伺っていた。社伝によれば創建は1400年前の645年ということだから、そう、なんとあの大化の改新があったとされる年にまで遡る。しかも創建したのはその藤原家の始祖である中臣鎌足とのことだった(もちろんあくまで社伝によればではある)。
また古代日本における最大の内乱とされる「壬申の乱」の際に、大海人皇子(のちの天武天皇)が戦勝祈願に許波多神社を訪れ、馬の鞭として使っていた柳の木を社殿に奉納したところその柳の木が芽吹いたことから柳大明神との称号を名乗るようになったともいわれている。結果、大海人皇子が戦に勝利したことから勝運を授ける神社として知られるようにもなり、馬の逸話から競馬の必勝祈願に訪れるファンも多いのだという。

ではなぜ現在ふたつあるのか?という肝心の謎の核心についてだが、創建時はもちろんひとつだった。場所は現在あるふたつの許波多神社のいずれとも違う場所にあった(二子塚古墳のあたりとする説が有力とのこと)とされているのだが、その後いつふたつに分かれたのか?またその理由など、正確な年代や経緯はわかっていない(おそらくは平安時代の後期ではないかと考えられているそうだ)。以後、ふたつの神社はこの地域に共存するかたちで、互いに近隣の人々や信者からの篤い信仰を得てきた。数ある京都の観光ガイドブックには載っていない小さな神社ではあるが、有名な清水寺や金閣寺よりもはるかに古い時代から、日本の民衆の生活とともにあったのが、この許波多神社なのだ。しかも13世紀末に書かれた書物には「許波多神社に座す神は宗廟の神として、他と異にして尊崇すべきである」と記され、じつは全国の神社の中でも特別視されている神聖な神社でもあるのだ。もちろんそんなことは知る由もなく、五ヶ庄のほうの許波多神社は小学校の、木幡のほうの許波多神社は高校の、それぞれ通学路近くにある寂れた神社でしかなかった。ほんとうに当時のぼくはなにを見て生きていたのだろうと、つくづく思わされることばかりである。

「お休み石」大海人皇子(天智天皇)がこの石に腰掛けて休んでいったとされる石だそうです。「勝運」というのは、おそらく五ヶ庄の方の許波多神社で伺った壬申の乱での戦勝祈願との関わりなのだろう。

ところで藤原基経という人は「光る君へ」の主人公・道長からみていくと、父・兼家の父が師輔、師輔の父が忠平、その忠平の父が基経ということになる。「ひいひいじいちゃん」ということになるのかな。もちろん「光る君へ」には登場しない人物だが、日本史上最初の関白とされていることからも、歴史的に非常に重要な人物だったことがわかる。それだけに、そうした偉業を成し遂げた人物の陵墓(とされている)がこんな身近な場所に、人知れず埋もれて在るということがすごく不思議なことに思えた。静かに眠れるということでは本人にとってはいいことなんだろうけど、けっきょくのところ死ぬということは、人々に忘れ去られていくということでもあるのだと、あらためて突きつけられたようにも感じた。

狐塚と呼ばれる宇治陵36号。藤原基経の墓とされている。ちょうど陵墓のところだけに光が当たっていてまさにこう神々しい光景だった。
例によってウグイスと、おそらくはホトトギスらしい甲高い声の鳥の啼き声が聞こえていた。

それと許波多神社は樹齢200年近いクスノキがある。樹齢およそ150年のときに建てられたと碑に記された年が昭和58年(西暦だと1983年、ぼくが12歳のとき)なので、それからもう41年の月日が経っている。高さは22m、幹回りが3.3mということだったが、もちろんこれも40年前の時点での記録だ。

境内にある樹齢約200年のクスノキ。写真には収まりきらず、大きさがまったく伝わらないけど、実際にここに立つと見上げた真上にも枝や葉が伸びていて生命力と迫力がものすごかった。

ちなみにいまから200年前というとベートーベンの交響曲第9番、いわゆる「第九」が初演された年で指揮者はベートーベン自身。つまりこの木がこの地でこの世に芽吹いたときにはまだベートーベンは生きていたわけだ。そう考えるとあらためてすごいなあと感心させられる。若い頃はどう生きるか?とその質を高めることばかり考えていたけれど、こうしてみるとただ長く生きているということだけでも、そこにはすごく価値があるものだなあと思ったりもする。たまたま境内で掃除をしていたおじさんと話をしてみたら、この木のすぐ横には民家があり、倒れるようなことがあると大変だと心配されていた。つい先日、産寧坂の桜が倒れたばかりだし、たしかにそういった可能性はあるなあと思った。

この歌の歌詞はドイツの詩人で作家のシラーが1785年に書いた詩「歓喜に寄せて」がもとになっている。当時のフランスは貴族中心の社会から市民中心の社会へと移行する転換期にあり、この「歓喜に寄せて」が書かれた4年後にフランス革命が起き、フランス共和国建国へとつながっていく。おそらくはそうした世情のなかでこの詩は自由への賛歌としても読み継がれ、ベートーベンも目にしていたのだろう。

ところでこの「第九」はいまや子どもでも知っている有名な交響曲だが、さてそもそもいったいどんなことを歌っているかについて深く考えたことがある人はそれほどいないかもしれない。あらためてその歌詞を読んでみると、基本的には神への賛歌。生きとし生けるものの繋がりと、そして神の世界との繋がりに歓喜を見出すということが主題になっている。どこか死をイメージさせる。死というか、死後に向かう神の王国で私たちは神のもとで護られ、みなひとつになる、というイメージ。

あなたの不思議なその力が
わたしたちを再び結びつけてくれる
生き方が違ってしまっているわたしたちを
やがてすべての人々は兄弟となる
あなたのやさしくも大きなその羽の下で

どの宗教であれ、自分には信仰というものはさっぱりわからないが、それでもたしかに自分も歳を重ねてみて、そうした人との縁、土地との縁、過去との縁、それこそ生きとしいけるすべてのものとの縁を感じるようになってきたし、そうした縁をより大事にしたいという思いが強くなっているようには感じる。それ自体はひとつひとつの小さなつながりにすぎないことも、とてつもなく広大で途方もなく長大な宇宙の空間と時間のなかで、ほんの一瞬だけすれ違った小さな星と星の輝きなのだと考えると、目の前にあるすべてのものが、美しく、愛おしく思えてくる。そう。たとえばこうして個人的にはなんのつながりもない藤原北家の人々の陵墓と自分史を重ねて尋ね歩いているように。たとえばこうしてここで許波多神社のクスノキとベートーベンが思いがけずつながるように。

さて、いつまでもそんなことを考えながら、おじさんとのんびりと立ち話をしているわけにもいかないので適当なところで切り上げて、JR木幡駅の方へと向かい、そこからふたたび府道に出る。そして府道をわたり、これまた「響け!ユーフォニアム」の聖地のひとつでもあるマクドナルド木幡店の前を通り過ぎ、住宅街へと入っていく。次にめざすはいよいよ藤原道長の陵墓とされている宇治陵32号だ。そう、もちろんふたたび登り坂なのだ。

境内を掃除していたおしゃべりが好きなやさしいおじさん。おつとめご苦労様です。

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