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二週間に一度の、人生研究成果報告会

大学生活も三年目。
新学期が始まり、四月になると大学からどのような事務連絡が来るかは大体わかるようになってくる。
健康診断のお知らせや教科書販売の日時、授業日程などがそれに当たるが、そのうちの一つに、Web問診の連絡がある。
大学生活についての不安や、日常で困っていることがないかの質問事項をスマホ上で答えるというものだ。
おととしや去年と同じように、四月の上旬、それにこたえていると、最後に

「学生相談室」が設置されており、カウンセラー(公認心理師)が学生相談に応じています。
学生相談室での相談を希望されますか。

という項目があった。
例年ならば、特に気にかけることなく、
「相談しない」にチェックしていたのだが、
今年はなんか「相談する」にチェックしたくなった。

カウンセラーの人と話すって、どんな感じなんだろう。
なんか面白そう。
どうなるかは全く予想がつかないが、その分からないという偶然性に身を委ねたくなっていた。
「相談しない」にチェックをすれば、何も起こりはしない。
だが、「相談する」にチェックをするだけで、何かは確実に起こる。
何かを目撃することにはなるのだ。
どうなるかは全く持って分からないが、自分が面白そうという一点にそそられていることは分かる。
私は「相談する」にチェックした。

ただ、Web問診は大学全般で行われているものであって、全学生を対象としている。そのため、たかだか俺がチェックしたところで、特に連絡は来ないだろうと、あまり期待はしていなかった。気休め程度に考えていた。

これまでに、個人的に大学教授にメールして、面談してもらうことは多くあった。なぜなら、生きるということについて悩むことが大学生になってから途端に増えたからだ。そして、腹の底を言葉で交わし合いたくなるような友達に出会えていなかったのも要因している。腹の底から話し合うのではなく、口元だけで話すような人がほとんどで、会話も適当。表面的で、深くまでしゃべる気も起らないでいた。
それが、ずっと苦痛だった。
大学の中には、確実にいるであろう、腹の底を言葉で交わし合うような人間に出会えていないこの状況にイライラしていた。
大学二年生までは、その真実に気付かないでいた。
なんでかは分からないが、ずっと大学に不服に感じていた。
なんでかは分からないが、何かがずっと足りていないようなが気がしていた。
でも、何が足りていないかが分からなかった。

ただ、変化は大学三年生の四月に突如として訪れた。
きっかけは、大体は大学一年生で履修する「ボールゲーム」という体育的な授業に参加したことだった。
何故、大学三年生の私が、大学一年生しか履修しないような「ボールゲーム」という授業を履修しようと思ったか。
全く自分の専門にも関係のない授業だし、単位的にも正直履修しても全く持って意味がない。
一年生の時に、私は座学の授業で体育の単位は過去に取り切っているからだ。
だけど、履修することにした。
それは、何故か。
大学三年生にもなると、授業のコマ数が少なくなってくる。
特に、前期は二年生向けの授業が多くて、取れる授業があまりなかった。
そんな時に、唯一といっていいほどの割かし親しい友達(ただ、この人は大学にバスで通学しており、隣県に住んでいるため、大学以外で気楽に会うということができない)に、「ボールゲーム、履修してみない?」と提案したことがきっかけだった。
友達は即座に、否定した。
「いや、意味が分からない。体育の授業単位は過去に俺らはとり切っているし、自由科目の単位にすら入らない。単位の数字が一つ増えるだけで、何のメリットもない。」
たしかに、そうなんです。
誘っている俺にも、何のメリットもないんです。(笑)
そして、絶対にこれからの季節汗をかくし、三年生で履修する人など全く持っていないんです。(笑)
「どうせ専門の授業で学校行くなら、そのついでに空きコマが多い分、履修してみない?
あと、大学一年生のキラキラを間近で感じられるし、今見えていない景色が見えることは確実なんだから、面白そうなのは確実じゃん!」という、窮屈な理由を述べて、強引に友達を誘いました(笑)
理由を簡潔にまとめると、「面白そうだから」というただこの一点だけです。
なんのメリットもなければ、周りは皆一年生。(笑)
だけど、友達は「面白そう」という俺のごり押しを何故か承認してくれて、本当に履修することになったのです。
正直、ひきで見てみると、このタイミングで「ボールゲーム」を履修しているのは本当に自分でも意味が分からないです。(笑)
でも、面白そうという偶然性に身を任せたかったんです。

そして、実際に参加することになり、
ドッジボールやバレーボールなどをすることになりました。
だけど、これが本当に面白いんですね。
初めて、大学の授業で心の底から「面白い!面白すぎる!!」と思いました。そして、ふと「ボールゲーム」にはあって、普段の授業にないものは何なんだ?と思いました。
大学で初めてぐらいに授業に喜びを覚えたんです。
普段の専門の授業は、あんまり喜びもないし、正直自分で本読んだ方が面白いなあと思う授業がほとんど。
別に、喜びもなければ、面白くもない。
だけど、「ボールゲーム」だけは面白いんです。
身体全体が、細胞単位で喜んでいたんです。
身体じゅうが「面白い!」って叫んでいました。
それはシンプルに、身体を動かすという喜びもあるかもしれませんが、それだけではその喜びの実感に説明が尽くせないんですよね。
だから、探りました。
普段の授業になくて、この面白そうだからという一点のみで履修した、単位の足しにもならなければ、周りは一年生だらけの大学三年生の俺が履修するのが謎でしかない「ボールゲーム」には存在している何か。

私は見つけました。
ひらめきました。
それは、「人と心が通い合う瞬間」なんです。
「ボールゲーム」にはその瞬間が、スポーツを通してたくさんあるんです。
ミスをしたら、声掛けしてあげたり、得点を決めたらみんなで喜んだり、ハプニングが起きたらチームで笑ったり。
人とのコミュニケーションを通じる喜びがあるんです。
そして、言葉を交わし合い、そこで人と心が通い合えたと思う瞬間に俺は生きる喜びを今まで覚えいて、そしてこれからも覚え続ける人間なんだ!ということに気が付いたんです。

(ほらね?人生の偶然性に身を任せることって、面白いでしょ?)

全くとる意味のない授業で、私はどんな時に生きる喜びを覚える人間なのかということの一端が分かったのです。
そして、普段の授業には「人と心が通い合う瞬間の欠如」しかないことに気が滅入っていたのです。
だから、授業に行くのが本当にずっと嫌だったんです。
だけど、その不快で、ずっとスベっているかのような状況に身を置くことで、初めて自分がいかに生きることに喜びを覚えているかに気が付けたので、そういう意味では、不快な授業と会話をしたところで面白くもなんともなくて、スベり続けている表面的な友達と、その瞬間を今まで何とか取り繕いながら過ごしてきた俺には感謝しなければいけないのかもしれません。

あれ?何の話してたんだっけ?(笑)

そうだ、それで話はWeb問診のカウンセラーとの話に戻ります。

心が通い合えるような、そんな友達がいないのであれば自分でその場を創っていくしかない。
だから、大学教授に話しに行ったりしていたのです。
そして、先週、実際にカウンセラーからメールが届いたんです。
面談の日程を組み、実際にお話をすることになりました。
気休め程度でしたが、実際に連絡がきたのです。
その方と通い合えるかどうかは分からないが、試してみない手はない。
そう考え、向かいました。

そこでは、本当にいろんなことを話したので、
あんまり詳しく内容は覚えていないですが、
日々の大学についての鬱憤や、先ほど書いた「人と心が通い合うような瞬間に生きる喜びを覚えている」ことに気がついたことなどをたくさん聞いてもらいました。
会話をするということも一つの偶然性なので、話したいことは事前にあっても、その弾を込めるだけで、どの弾が会話の中で放銃されていくかは実際に話してみないと分からないのです。

そうした中で、カウンセラーと対話していく内に、
またもや気づいたことがありました。

悩みや日々感じていること、就職について、、、、
本当にいろんなことをしゃべりまくり、そろそろ時間が過ぎ、終わりかけていた時、
「次の面談は、いつにする?」
と言われました。
その時に、俺は
面談していく際中に見つかった、これから自分がやるべきことややりたいことなどの自分の人生についての研究成果を報告できる場が現れた!
と思ったのと同時に、人生研究成果を聞いてくれる人がずーーーっとほしかったんだということにも気づきました。
そして、大学に腹から喋りたくなるような友達がいないことのきつさの要因も分かりました。
それは、つまり心が通い合う瞬間の欠如、ひいては生きることの喜びの欠如であり、どうにか懸命に生きてもそれを共有してくれる人がいないことの寂しさと、どうも自分を突き動かすことの原動力に欠けているのでした。なぜなら、いかに一人で頑張ろうが、それを聞いてくれる人、共有してくれる人がいなければ、どうにもやるせなさを覚えるからです。
自分に向けて、頑張るのだけでは限界があります。
いかにして頑張っても、それをみたり、聞いたりしてくれる人がいないからです。
カウンセラーにお話を聞いてもらえるし、カウンセラーがおれをみたり、きいたりしてくれるなら、その二週間は懸命に生きれます。
高校までは、そういう人が友達に居ましたが、大学生になった途端にいなくなったその存在の欠如に、大学最初の二年間は大いに苦しんでいたのでしょう。
そして、特に俺は生きることの喜びを人間との心の通い合いに見出しているので、よりきついのは確かです。
しかも、この気づきは大学三年生になってからのことで、
二年間は苦しい、だけど得体のしれない何かに苦しめられているような、分からなさもありました。
その分、より苦しかったのでしょう。
だけど、その二年間、正直に苦しんでくれた蓄積のおかげで、鮮明に気付くことが出来たわけです。
だから、素直に苦しんでくれた俺には、感謝しかないです。
ありがとうございます。俺。

私は、カウンセラーとの面談を二週間後に設定し、これから卒業まで、ずっと二週間ごとに、二週間、生きたことによる研究成果を聞いてもらおうと思いました。
確実に自分に耳を傾けてくれる人がいるということは、私にとっての生きる原動力になるのです。
そういう場として、カウンセラーとの時間と言葉の共有が新たに立ち上がったのです。

友達のネットワークがなければ、自分で創るしかない。
だけど、それは簡単にできることでもなければ、本当に難しいことです。
何かきっかけがないと、簡単に出会えるものでもないです。
だけど、Web問診にたまたま面白そうだからという理由でチェックしたことにより、それは創られました。立ち上がりました。
偶然性よ、ありがとう。

二週間に一度、絶対に自分が生きたことの研究成果を聞いてくれる人がいるということは、私にとって大いなる希望であり、光になります。
なぜなら、二週間の出来事について言葉を交わし合ってくれる人がいるという確実性は、その二週間の生きる原動力になるからです。
出来ないことも、できるようになるからです。
二週間、どんなことがろうが、それを聞いてくれる人がいる。言葉を交わしいあい、時間と空間を共有してくれる。
自分の悩みや感じたこと、想いに言葉を馳せてくれる人がいる。

なんだ、もっとはやくから、カウンセラーとの面談、申し込んでおけばよかった。

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