不登校の映画を観たら、学歴主義の申し子である自分にOKを出せた話 ~映画『自立への道』を観て~

映画『自立への道〜不登校が呼び覚ますもの〜』は、小学校や中学校などを不登校で過ごした人たちが大人になった今現在どのような暮らしを送っているのかを本人たちが語ったインタビュー動画である。

https://www.youtube.com/watch?v=7tQcQ3m2z2E

先日恵那市の有志がこの映画の上映会を開催し、オレもリモートで観られる機会があった。

なぜオレが不登校がテーマの映画を観るようなことになっているのかといえば、自分の息子がまさにその渦中にある当事者になっているからだ。
その経緯については妻のnoteに詳しい。

息子の不登校に対する自分の向き合い方は今ここでは差し控えるが、なかなか周りに同じような事例はなく不安がないと言えばうそになるので、このような当事者たちの口から直接その経験を伝えてもらえることは貴重と思う。

不登校経験者たちの自立力

映画では8名ほどの不登校の経験を持つ人たちが登場する。不登校に至った経緯はそれぞれで、病気に端を発するものから、親の方針、という人までいる。

学校の中でみんなと同じことをやることにどうしてもなじめず、不登校を選んだ、という声もあった。うちの息子の不登校はこの理由に近い。

彼らが語っていたのは、例えば、

  • 漢字はだいたい読めるようになる、書くのは少し苦手。

  • 必要と思えば自分で勉強するし、やろうと思えば資格も取れたりする。

  • 家のことを手伝っていたから、自分でなんでもできる。足りないものは自分で作れる。

  • 不登校だったから今何か不都合、ということもない。

  • 自分で考えて自分のことを決めるくせがついているので、世間がこれがいい、というような声に惑わされない。

などということだった。

共通するのは不登校であったことをポジティブなこととして、自分はそれが良かったんだ、と捉えていること。つまりは自分自身を信じて生きている、という自信によるエネルギーがあふれているようであった。

そんな彼らからは「積極的不登校」、つまり学校にはむしろ行かないほうがいいんだ、と受け取れる声も聞こえたりした。

学校は何が何でも行くようなところではないのか、時代のニーズに合わないと言って行く価値もないところなのか。
サブタイトルにもあるように、不登校「だから」自立する力が呼び起こされる、のか。
彼らの話を聴くうちに、息子のことを考える前に、いつの間にか自分が学校とどう向き合ってきたのか、を思い起こしモヤついていた。

学力偏重に生きた自分の葛藤

特に気になったのが、「勉強すること」への否定的な発言で、日常生活で使わないようなものをなぜみんな同じに習わなければならないのか、というものである。

彼らからすると、学校の勉強より日常生活での知恵の方が遥かに大事で、不登校”だったから"たくましくなれた、学校行っていた人たちは、自分で考えずに言われたとおりに勉強してるだけで、いざというときに何の知恵も出せない、とのことだ。

確かに、とうなずく一方で、モヤモヤする気持が湧いてくる。

何せオレは学歴主義の真っ只中を通ってきた人間なのだ。
中学受験を経て、良い中学・高校、良い大学、大企業や国家公務員を目指す、というルートに乗ることを自分の意思とは関係なしに義務づけられてきた。
そんな学歴・学力偏重の、学校そのものが予備校のような環境にあって、生活に必要なことを何一つ学ぶ機会のないままオトナになったオレや友人たちは何か悪いことでもしてきたのだろうか。

確かに彼らの持っている自活力をオレはなにも持っていない。いざというときにうろたえる。震災を経てサバイバル能力が皆無なことに気が付き、生きる力を身に着けようと田舎に移住したものの、自然相手に簡単に打ち負かされる
これらが学力偏重の学校時代を過ごしてきた弊害だというなら、申し訳ございません、としか言えなくなってしまう。

自分を助けたものは何だったか

実際のところ、オレは学校には通っていたが、ルートから逸脱して自分の将来はドラマーだと決めていたことで、学力を身に着けることだけでは見えない別の世界を見ることができ、オレはみんなと同じじゃなくて良い、と思ってきたことは間違いない。

しかし、学歴主義ルートから逸脱し、大学卒業後定職にもつかず30半ばまで音楽生活に明け暮れ、社会的スキルも何もないオレが移住して地域おこし協力隊として活動したり、今まがりなりにもECビジネスで生計を立てられているのは、結局のところ基礎的な分野には何でも対応できるぐらいの学力を身に着けてきたおかげなんではなかろうか、と最近になって思うようになった。

もちろんそんなもんは学歴や学力などなくても、できる人はできる。あくまで結果論、とも言える。その意味でいえば、学力は今の自分を気持ち的に支える拠り所になっている、という言い方もできる。

ともすると批判の対象にもなり、自分でも批判的に捉えてきた学歴主義の当事者という自分のことをやっと肯定できるようになったのだ。学力を立派な自分のリソースと捉え直し、活かせる道がある、と考えられるようになったのだ。

だから、映画の中での「学校で習うことなんて別に役に立たない」という声にもモヤつくのは、人それぞれ違う感性で歩むそれぞれの人生に対するレッテルを貼られた、と感じたからだろう。

分数の割り算だけ取り出して、こんなの日常生活で使わないから要らない、というのは簡単だ。それでも充分心豊かな人生を歩めることは確かに映画の中の彼らが教えてくれた。しかしそれもまた結果論かもしれない。学力も積み重ねでしか辿り着かない世界もある。それによって支えられている人生や人の役に立つこともある。日常に使えることだけが価値だとオレは思わない。

もし何らかの理由でオレが学校に行かない、という選択をしていたら、今のオレはやはりいないわけで。その時の選択が良かったのか悪かったのかなどいうのは、今になってもなお決められることではない。

それぞれの生き方に尊重を

この映画でも感じたことだが、不登校を語る際に、学校と教育と学力と学歴とが、ごちゃごちゃっと整理できてない状態にあることで、感情論になりやすいと感じている。
登校か不登校かを正否で決めてかかるのでなく、行く自由、行かない自由それぞれがある。ひいては個々の人が自分自身の生き方を選択する自由があること、他者はその選択を尊重することから始めるのが、議論の前提となろう。

我が子の不登校に際して考える前に、自分と学校とのかかわりを見つめなおし、自分自身を認めてあげることはできた。当然、息子に対して学力のために学校に行くことを強いるという意味ではない。
不登校か否かにかかわらず、まずは親である自分が学校で何に満たされ何に満たされなかったのかを振り返ってみることが、子どもへの向き合い方のヒントになるかもしれない。

確かに学校制度自体に経年的な歪みが生まれていることで、適応できず苦しむ子どもたちが増えているのも、我が子を見ていれば理解できる。

映画で語っていた不登校だった彼らの経験からは、自分で考え、自分で行動することで、自己肯定感や自信を高めることができることを教えてもらった。それは確かに勇気づけられることだ。

一方で、学校での体系的な学習が生きる糧になる人たちもいる。彼らが社会で果たしている役割は限りなく大きい。
両者を切り離して考えるのでなく、相互に補完できるようなあり方を目指せないものだろうか。

今回紹介した感想は映画の一部であり、他にたくさん共感できることもあったので、感想の続きと合わせて、学校や教育についてはまたの機会に書くことにする。

それにしても、前に書いた食の安全に関する映画同様、かなりラフな作りなので、これを『映画』として紹介することにいささか抵抗があることはお伝えしておく。

(追記)毎月連続公開がかかって焦っていたせいか、読み返してみると、不登校でも生きる力を磨き自分の生き方を貫いている人たちを観て、隠さずに言えば旧来的な社会意識に絡めとられている自分をバカにされたような気持ちから出た反発心だったり、今現在不登校にある息子に彼らの親御さんたちのような肝を据えた接し方ができず確かな方向に導けていないことを言い当てられたような気持ちからにじみ出たひがみや羨望にあふれていると感じて、ちょっと恥じ入っている。決して映画の彼らを否定するものではない。
ただ息子のことを考える前に、オレ自身が過去と現在を未消化だったことはよくわかった。映画の人たちが今こうして過去をポジティブに思っていられるのも、親御さんたちの向かい合い方の影響が相当に大きいと思える。
息子に心から大丈夫だよ、と声をかけてあげるには、自分のもやつきをちゃんと消化してあげないとできることではない。そのために書いたものだと思えばこのまま残して、我が子の不登校に悩む親御さんたちと思いを共有したいと思う。

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