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食の安全は楽しく語りたい。~映画「食の安全を守る人々」を見たら恐怖を覚えた話~

皆さんは普段食べる野菜や穀物などの安全性、についてはどのように意識されてるのだろうか。

自分たちの食べるものに付着している残留農薬が引き起こす健康リスクなどを気にされるだろうか、またそうした農薬類を使う栽培法が与える土壌の生態系等の自然環境への影響を気にされるだろうか。

もしくは最新技術によって農薬類による人体や環境への負荷を限りなく0に近づけられているという説明を信じ、これからの人類の食糧事情を支えるためにはさらなる大規模化・効率化をこうした技術によって発展させていくべきと考えるだろうか。

その答えは今この時点で明らかではないと思っているのだが、消費者側にも生産者側にも食の安全を担保する一つの選択肢として、いわゆる有機農業、オーガニックな農法が広く知られてきている。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(所要時間5分。タイトル画像は我が家の稲刈りの様子。)

有機農法を選ぶ、ということ

ここ岐阜県恵那市でも、有機栽培系の農家さんの存在感が年々増してきてるように感じる(有機と言っても農薬の使用を認める一派から自然農まであまり一緒くたにすると微細な違いにこだわる農家さんもいると思うが、ひとまず有機系、ということでまとめさせてもらう)。

かくいうオレも4年ほどの間ではあるが、有機無農薬栽培による野菜の販売にチャレンジしていたことがある。

なぜ有機無農薬を選択したのか、といえば正直それほど深く考えることなく、「今から若いオレが農業始めるんだから有機無農薬一択だろう」ぐらいの考えだったが、その道の農家さんの知り合いが増え、さまざまな情報から学んでいくうちに「闇雲な農薬散布や過剰な化学肥料の施用は人体にも環境的にも危険だ」と知り、農薬や化肥に頼る農業が抱えるリスクについて疑念は深まった。

のではあるが、どちらかというとオレは、今の農業がいかに危険か、を啓蒙するよりも、有機的な循環で作物が育つなんてワクワクしない!?という自分自身の感動とか体験を伝えたかったので、それほど熱心に農薬の危険性について勉強したわけでない。

なので、前述したように、農薬は地球環境や人体に害を及ぼす悪質な存在で儲け主義の象徴なのか、消費者の求める品質や収量を合理的に達成するために不可欠なものなのか、そういうジャッジをしてこなかった。

有機栽培農家を選んだ人たちは、ただでさえ栽培が難しく営利的に考えたら非効率極まりない農法であるのにもかかわらず様々な理由でオーガニック農法を選択しているのだろうけど、彼らの根本には、食べるものへの安全、環境、生態系への配慮、生きることへの確固たる哲学が共通して見てとれる。

それは自分で育てずとも有機農法による作物を選択して口にしている消費者も同じだ。自身や家族の健康、そして地球環境に対する憂慮を抱え、今の食糧生産・消費のあり方を見直そうと、さまざまな活動をされる人たちもいる。

先日、恵那でそうした農業や食育などに取り組む方々が力を合わせて、ある映画、というのか、映像の上映会を開催されていたので、オレも足を運んだ。

「食の安全を守る人々」という映画である。

映画「食の安全を守る人々」

内容としては、残留農薬による食の安全が脅かされ、健康被害、自然環境への悪影響が明らかになっているにも関わらず、農薬が売れて儲けられればいいというグローバル企業がその生産販売をやめないでいることに対し、いかに甚大な被害が及んでいるのか実態を暴き警鐘を鳴らす、そんな話だ。

オレが最初に、映画、と呼ぶことを躊躇したのは、自分が慣れ親しんだ「映画」としての作りとは異質なものに感じたからだ。

公平を期すために、途中何度か会場を出たり入ったりしているので、全部を通して観たわけではないことを白状しよう(4分の3ぐらいは見れた。その理由はあとで述べる)。

そんな観方をしていたのだが、見た限りの中では方々取材して撮りためた画像をつないだだけに見えて、観る人が引きこまれていくような話の構成とか、登場人物の心の機微に想像をかき立てさせるカメラワークとか、そうした映画だからこそ伝えることのできる映画としての創造性が感じられなかった。

もちろんこれがドキュメンタリーだということは理解している。余計な演出をそぎ落とし、製作者の考える「正義」を余すことなく詰め込もう、という意図は感じる。

のではあるが、難しい化学合成物などの用語や無造作な印象のグラフを並べたて、かみ砕いて説明する場面もなく、急に違うトピックが割り込んできたり、急ぎ足にあれもダメこれもダメと、節操がないように感じたので、上記のようなカメラワークと編集も合わせて、非常に疲れた。今時のYouTubeの方がはるかに作品としての練られていると思える。

タイトルも「食の安全を守る人々」とあるが、実際は農薬の被害にあったという人たちや、その被害と農薬の関係を裏付けようとする市井の人たちへの取材に多くの時間が割かれていて、最後の最後にやっと有機稲作の研究を続け千葉県いすみ市の学校給食を全て有機栽培の作物に切り替えるに至った立役者の稲葉光圀氏(故人)の登場があったが、それまでの時間オレとしては「本題はまだか」という気持ちも沸いてきた。

一番気になったのは、有名女優を起用したというナレーション。おどろおどろしくドスを利かせた低音の声は不安を煽り、さながらホラー映画のよう。
確かに我々の食生活がいかに悪の枢軸なる金満企業に破壊されようとしているのか糾弾せよ、という趣旨には合っていたのかもしれないが、一見未来志向の明るいイメージを抱かせるポスターとは、どうにもミスマッチだった。

上映会には小2の息子を連れて行ったのだが、途中このナレーションや「残留農薬が子どもの脳神経を犯し異常行動を引き起こす」というような話を聞いて「怖い」と言って出たり入ったりを繰り返した。
日頃から森や川に囲まれて暮らし、自分たちに遺されていく自然環境を自分たちで守っていくんだ、という意識の高い彼でさえ。彼にとっては環境に関わることは「楽しいこと」らしいので、映画に寄せてた期待とは大きく違ったようだ。

こうした、不安を煽り、恐怖で人の行動を変えさせようというのは、確かに効果があるかもしれないけど、どうにも融和的でない。
あるいはこの映画を作ってきた人たちは、正義感にかられリアリティを意識するあまり、このような無骨な作りになってしまったのだろうか。映画らしい作りなんて言ってる場合じゃない、今危機がやってきてるんだから!ということかもしれない。
これだけ危機をあおる内容なら、融和的では重い腰を上げられない官僚みたいなな人たちに見せるにはいいのかもしれない。
ならばタイトルからポスターまで、誰に何を伝えたいかを端的に表現してもらいたいものだ。

こうした作品としての「ガワ」がいまいちなため、内容についても、自分たちの都合に合う情報だけ集めてきてるんじゃないの?という疑念に駆られてしまう。

当然、危険な農薬がそこら中で撒かれるような状況は勘弁してもらいたいし、この映画の中で暴かれている種々の問題というのは語られる通りのこともあるだろうし早急な解決が必要なのだろう。しかし、これだけ「あれもダメこれもダメ」と徹頭徹尾で語られると、どうにも一方的な主張に感じられてしまうことを製作する側は考えたことはないのだろうか。

なんなら映画のリード役として登場している山田正彦氏には、元農林水産大臣という肩書を活かして、敵の超巨大金満グローバル企業に乗り込み、何か言質を取ってくる、ぐらいのトピックが欲しかった。
賛否はあれどアメリカ銃社会の問題に対して、ライフル協会に文字通り「殴り込みに」いったマイケル・ムーア監督の「ボーリング・フォー・コロンバイン」は、そういう意味で監督自身ものすごいリスクを冒しているからこそ、迫真の緊迫感あるドキュメンタリーになっているわけで。

あるいは、「こちら側」だって「何が正しいのか」と葛藤したり迷ったりすることはあるはずだ。それが人間てものだ。そういうこちら側へのスポットの当て方があると、逆に信頼が増しそうなものだ。

だいぶ批判的な評になったが、農薬の問題に限らず、自然環境的なことに対するこれからの自分たちの行いというものは、未来に直結することとして誰もが真剣に取り組まなければならない、と言う思いはオレにだってある。

大事なことだからこそ、もっと伝え方があるだろう、というのがオレの率直な思いで、ぜひそうした声を採り入れて次に向かってほしくて、こんな風に書いている。

「楽しく伝える」のは大事だ

農業の未来を語るなら、土を介して有機物が循環し植物が実をつけ、さまざまな生物の命を支え、人間の命を支える、そんな地球上の生物たちが共進化してきた不思議さというか、驚きというか、「農業、すごいぜ」というテイストで見せてほしい。それこそ映画の最後の最後で出てきた稲葉氏のように、え、こんな風にできちゃうんだ、というわくわくするぐらいの希望の部分をもっともっと見せてほしい(むしろ主人公は稲葉氏で良かったんじゃないか??)。

「学び」にとって「楽しさ」が重要なのは、宮台真司氏が掲げる「楽しい、しかも、正しいことが大切」という言葉からも言うことができる。

僕が言っていたのは、「正しさ」と「快楽」の一致。でも、「正しいけど、快楽もある」じゃダメ。「快楽だけれど、正しくもある」がいい。多くの人々は鬱屈していて「快楽」がほしいんだから、「同じ快楽があるなら、正しいほうがいいでしょ?」と巻き込んでいくのがベスト。(中略)
楽しいと言いました。ローカルで顔が見えるのは楽しい。スローフードというと日本人の多くは有機野菜やトレーサビリティを考えるけど愚かです。顔か見える範囲に向けて作って売る。規則があるからというより、「喜んでもらえると楽しい」から良い物を作ろう、売ろうと思う……。

https://newspicks.com/news/1899213/body/

そう、確かに人体にも環境にも危険な農薬は問題だ。しかしそれを必要としてきたのは当の農家であり、季節をずらした栽培に欠かせないからであり、旬にない野菜を出せばその方が売れるからである。農家の収入はこうした”工夫”によって収入を増やしていて、「農業は稼げない」という長年のお題目に対しこうして農家が所得を増やすのは社会にとって喜ばしいことではなかったのだろうか。

宮台氏が言うように、順番が逆だよね。
生産者と消費者が思いを語り合える関係を結ぶこと、そのこと自体が社会を心豊かにするできごとであり、そういう人たちにはできる限り安全なものを提供したいし、消費者は生産者を支えたい。そんな交換はお金以上の喜びに感じるから、お互い住みよい環境を協力して作りたい。農薬に頼らなくても生産できる量の範囲で、単純な所得でなく消費者との有形無形の社会的交換によって農業と食の安全性の持続性を高めていく、そんな未来図を描けはしないだろうか。

映画が気になる方は、各地で上映会などが開催されているので、チェックしてみてください。きっとまた違う見方があると思うので、そんな感想もシェアしてもらえたらオレもまた学びになると思います。

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