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「ご栄転おめでとうございます」の日本、単身赴任のないカナダ 〜人事異動のお国事情〜

「ご栄転おめでとうございます」の裏にあるもの


「異動される皆様、ご栄転おめでとうございます」
---この時代、いまだに定期人事異動があり、その度に職場で小セレモニーが行われて司会者からこんな言葉が出てくるなんて、(司会者は全く悪気がないと思うが)この言葉には違和感、いや、怒りしか湧いてこない。

私がかつて見た風景だ。私は異動対象ではなかったが、多くの人が、人望なきパワハラ幹部がさらに出世していく様子や、嫉妬によるいじめのような理不尽な異動の連続に絶望を感じていた時だけに、なおさらだった。

おそらく、年を取れば取るほど、ほとんどの人が”ご栄転”ではない。何かと理不尽だったり、自分として満足しないのが異動だ。そもそも、なぜ、落ち込んでいる時に、わざわざ人前に引き摺り出されたあげく、”ご栄転”などと言われなければ、そして「ありがとうございました」と言わされなければならないのか。セレモニー自体が要らないが、仮にやったとしても「今回異動される皆様です」で十分だろう。

今いくら働き方改革が進んだり、若い人の仕事に対する考え方が大きく変わったりしていると言っても、いまだに旧態依然とした人事異動の慣例が行われている企業、特に、”絶滅寸前の恐竜(=身体が大きくなりすぎて死に体)”になってしまったような大企業に、そういうことが多い気がする。少なくとも自分が所属する場所がそうだったということを再確認し、怖くなった。

きっと「ご栄転」というのは、異動対象者を讃えている言葉ではない。「徳のある権力者が、下々の者に地位を与えてやっている」という、「上から下へのベクトル」の着想で出てくる言葉だ。ご栄転と言いながら、権力者を讃えている言葉なのだろう。

罰を与える人事以外は、全てありがたい「栄転」のはずだから、どんなに失意にあっても「ありがとうございました」と恭しく賜らなければならないのだ。

「社員と会社」「国民と国家」


人事に関するこうした話を、よく聞く戦前の、”国民と国家”に関わるさまざまなエピソードと重ね合わせてしまうのは、あながち間違った感覚ではない気がする。

例えば、息子に徴兵の赤紙が来てショックを受けている母親に対して近所の人が「おめでとうございます」と言い、母は「ありがとうございます」と言うのに、似ている。誰も、おめでたいとも、ありがたいとも思っていない。

しかし、この例えは全然違うもので、比較するのはとても失礼かもしれない。

なぜなら、「おめでとう」と言う近所の人は、自分の身にも同じことが起きるかもしれず、もしくは既に起きていたりして、言葉とは裏腹に心で泣いて、その心をお互いに通わしている会話であるかもしれないからだ。

そういう意味では、私が見た「ご栄転おめでとうございます」「ありがとうございます」の方は全く違い、そこに何の心もなく、もぬけの殻のような言葉のやりとりだったと思う。

(もちろん、”この人頑張ったから、この部署にいけてよかったね!”と思える、”本当の栄転”の場合は、素直にお祝いすることは大前提。)

カナダには単身赴任がない!?


異動といえば、「単身赴任」について、昔、初めて来日し、契約スタッフとして我が社で働くことになったカナダ人の同僚と話した時のことを思い出した。

欧米人との会話では「あるある」の一種だと思うが・・・
日本企業の「単身赴任」の話題になった時に、そのカナダ人が私に聞いた。

カナダ人同僚「日本ではなんで単身赴任”しなければいけない”の?」

私「そりゃ子供の学校とか色々あるから。異動を命じられた場所によっては・・」

カナダ人「だって、家族がバラバラにならなきゃいけないような場所で、それを家族が望まなければ、行かなければいいんじゃない?」

私「えっ?・・・」

どうも話を聞いていると、話の前提としているものが違うことにすぐ気がついた。彼らの会社(大手メディア)では、人事は以下のようなシステムだという。

*異動は、まず「○○の部署の〇〇のポジションに空きが出た」として、希望者が募集される。やってみたかったら手を挙げてアピールする。だから、嫌な場所に異動させられることは、ない。

*その上で選考にかけられる。もちろん人間だから、過程がすべて納得のいくものばかりではなく、理不尽だと思う人事もある。しかし、自分が行きたいところにチャレンジをする、という発想であって、黙って命令を待つ、というものではない。

・・・・ううむ、なるほど。
当時まだ若かった私には、カルチャーショックでしかなかった。そして、単純に羨ましいと思った。

「仁義なし、階層の固定化、ご奉公精神」に未来はあるか?


こういう話をすると、必ずと言ってもよいほどある古典的な反論に、「そうは言っても欧米では、すぐにクビを切られるし、云々」などというものがある。

私も確かに、アメリカのTV局で研修をした際に、そこの部長さんが急にいなくなったのを目撃して驚いたことがあった。「どうしていなくなったの?」と聞いた私に対して、部長の部下だった人たちは、「そりゃ、あれだけお金もらって視聴率上げられなかったら仕方ないでしょ」と。「これからどうするの?」と聞くと、「そんなの知らないわよ」と、そっけないものだった。

なるほど。これはこれで、大変かも・・・と思う。
「日本は遅れていて、欧米は素晴らしい」というわけではないのは、当たり前だ。
それに、私が話したカナダ人は大手メディアの社員という恵まれた人であり、カナダ人や欧米人全般を代表するわけではないことも、百も承知だ。

しかし、じゃあ、それが日本の伝統的な人事異動システムの問題点を正当化するものかというと、そうではない。

さらに、今日本の、いや、少なくとも私が知っている人事では、良くも悪くも”仁義”がなくなってきた。

我が社もかつては、地方に赴任すると階級が上がったり、”お勤め”を終えた数年後は、自分の専門である希望の部署に配置されたりすることはよくあった。今はそれもなくなった。いや、正確に言うと、会社が幹部候補生と見なして優遇している一部の人たちには仁義が存在するが、その他大勢には、適用されなくなっている。

そういった類の仁義は確かにもう時代遅れで、私も違うと思う。しかし仁義がない状態で、じゃあ本当の実力主義なのかというと、そうもなりきれず、理不尽な「カースト」が存在して不公平感が広がり、全体の”ご奉公精神”だけは依然強く求められる・・・そういう組織には明るい未来はない気がする。

「実力主義」の落とし穴


また、「実力」「業績」「評価」という言葉も、要注意だ。

これは日本型にも欧米型にも共通する問題じゃないかと思うが、特に業績を「数値化」しにくい職場では、人間が絡む問題である以上、評価が公正なものにならない可能性も少なくない。

年功序列を馬鹿にする人には、業績至上主義者が多いけれど、今余裕をかましていても、「いつ自分が”理不尽に評価されなくなる”ことがあるかわからないのになあ」と、(大きなお世話だろうが)そう感じることがある。私は長年の経験の中で、嫌と言うほど理不尽であまりに悲しい人事を見てきたし、自ら経験もしてきたので、そのことだけは、強く思うのだった。

「明るい」ワークスタイルを求めて


なんか書いていて、暗くなり、息詰まってきた。ここまで読んでいただいた方に申し訳なく思うが、最後明るく終わりたいので、今のモヤモヤを出してみた。

読者の中には、私の経験談は「何世紀の話?」と思うほど、既に新しい働き方をイキイキと体現されている方も少なくないだろうし、その逆に同じような、いやもっと深刻な体制の中でもがいていらっしゃる方もいると思う。そして何より、社会全体のシステム自体が変わり切ることができず、迷走している感じすら受ける。

どんなワークスタイルでもいい。明るい発想でありたい。

さまざまな人が、それぞれの形で、イキイキと働けて、決して思い通りにはいかなくても露骨な「悪」は裁かれて、”ポジションに就かせていただく”のではなく、逆に、新しいポジションをどんどん作っちゃえるような、そんな職場。少なくとも自分は、早くそういう環境を探したり創ったりしていきたい。

人生は短い。嘆いている場合じゃなさそうだ。ちょっと焦る。
そのヒントとなる働き方を、noterの皆さんから学んでいきたい。

若い頃、あのカナダ人から教えてもらった人事制度の衝撃のように、また良い電気ショックを頭に受けて、次のステージに飛び出したいなと思っている。


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きょうも最後までお読みいただき、ありがとうございました。
AJ 😀





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