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2/10。「女の子」を強いられるのは、疲れるね。

5:30起床。

天気は曇り。





……。
……。
……。


「起きて」


夢?
現実?
ここは、どっちなの?


……。
……。
……。


「起きて」


ああ、
そっか。
朝が、来たんだ。


行かなきゃ。


「料理もできて、洗濯もできて、掃除もできて……本当、いいお嫁さんね」


僕は、家政婦じゃないよ。


「(僕の)誕生日は、何を買ってあげたの?」
パートナー「財布だよ。あと、○○でご飯も食べたよ」
「食事ねえ……。たまには、服でも買ってあげなさいよ」


服くらい、自分で買うよ。


止めてよ。





昨日は、色々あって、おばあさん(パートナーの母方の祖母)とショッピングした。もちろん、パートナーも一緒に。


僕は、あんまり乗り気じゃなかった。なぜなら、僕はおばあさんのことが、苦手だったから。悪い人じゃない。悪い人じゃ、ないんだ。でも……。おばあさんは、「優しい虐待」をする人だった。

優しさのかたちをしているけれど、結果として苦しめるのなら、それは相手を残酷に取り扱うのと同じこと。つまり「優しい虐待」なのだ。

――幡野広志『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』より引用

お嫁さんは、こうあるべき。女の子には、こうするべき。だから、あなた(パートナー)も……。そんなことば達が、僕をぎりぎりと締め付けた。


おばあさんは、悪気があって、いっているわけじゃない。むしろ、善意があって、そういっている。「おばあさん」だから、その世代の価値観で、助言をしていることも、わかっている。だからこそ、何もいえなかった。


パートナーは、家政婦と結婚したわけじゃないんです。服なら、パートナーに買ってもらわなくても、自分で買います……。とてもじゃないけど、いえなかった。自分の両親にさえ強くいえないのに、ましてや、義理の家族にいえるはずがなかった。


きっとおばあさんは、僕が「女の子」だから、そんなことをいって『くれた』んだろう。


でも、僕は「女の子」じゃないから。「女の子は、こうあるべき」を押し付けられると――ただでさえ、「女の子」のフリをするのは疲れるのに――死んでしまいたくなる。パートナーがいなかったら、本当に死んでいたと思う。パートナーが――良き理解者がいてくれて、よかった。


僕はこれからも、「優しい虐待」をされると思う。僕が、自分らしく生きている限り。でも僕は、そんな自分を、誇りに思っているから。パートナーも、誇りに思ってくれているから。だから、「優しい虐待」をされても、けろっとしていられる自分でありたい。


……まあ、疲れるものは、疲れるんだけどね。そのときは、パートナーと、コーヒーブレイクといこうじゃないか。





「僕だけが、鳴いている」

これは、僕とドッペルさんの話。もしくは、何か(を生む/が死ぬ)話。

連載中。


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