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【長編小説】 初夏の追想 20

 私は再び犬塚家の別荘に戻った。平生へいぜい通り、祖父は一切のことに無関心だった。あちらに行くと告げて私が出ていったときも、恐ろしいほどの集中力をもってあの母子おやこの肖像画に精魂を注ぎ続けていた。

 ――別荘の中の雰囲気は、以前とはガラっと変わってしまっていた。あんなに人々のざわめきや笑い声に満ち、歓談の雰囲気に包まれていたのに、いまや建物のどこにも人影はなく、あたりはしーんと静まり返っていた。犬塚夫人の姿はどこにも見えなかった。
「母は、山を降りました」
 裕人ひろとは言った。
「母は、守弥の容態にショックを受け、絶望しています。精神的に不安定になっていて、とてもここにいられる状態ではありませんでした。人を迎えに来させて、いまは自宅に戻って休養を取らせています」
 彼の声は、支配的だった。
「僕もまた、今日この山を降ります。僕には守弥に何もしてやれないということがよくわかりましたからね。……僕がこの三日間語りかけ続けた言葉に、とうとう守弥は一度も反応を示しませんでした。……はっきり言って、限界です。母の性格や守弥の病気や何やかやに、これまでずっと我慢して付き合ってきたけれど、もうこんなことは沢山だ。……こんな家族を持つ苦労を、あなたにはわかっていただけないでしょうね。それこそ、想像もつかない生活ですよ……」
「裕人さん」
 柿本がとがめるように言った。
 しかし裕人は柿本を一瞥いちべつすると、冷たい眼差しでこう言った。
「……では、芸術のかけらも解さないこの冷血漢は退散しますよ。失礼します」
 居間の隅にまとめ置いていたらしい荷物を手に取ると、裕人は振り返らずに出て行った。
 
 玄関のドアが閉まる音がした。あとには私と柿本だけが残された。私たちは、目を見合わせた。重苦しい沈黙に辺りは包まれた。
 
「さて……」
 私は言った。
「あんな兄は、要りませんね。いてもまったく意味がない」
 柿本は、憤怒の色を隠せずに、小さく震えていた。そして、失礼、と言うと、きびすを返して居間を出て行った。
 
 私は守弥の寝ている部屋に入ってみた。守弥は薬のせいで朦朧もうろうとしているらしく、人形のように横たわったまま、虚ろな目を天井に向けていた。
「守弥……」
 声をかけたが、その声が彼に聞こえているのかどうかさえもわからなかった。
 私はしばらくそこに立ち続けたが、段々と辛くなってきて、静かに部屋を出た。
 ――居間に戻り、ソファに腰掛けて、私は考えた。とは言え、これからどうしたらいいというのだろう。柿本に乞われるままにここに戻って来はしたものの、守弥を回復させるためのいいアイデアがあるわけでも何でもないのだった。第一、私などにいったい何ができるというのだ? 長年面倒を見てきた家族でさえ打つ手はないと言っているのに、たかが少しのあいだ一緒に過ごしただけの私に、それもそのときにたまたま彼の調子が良かったからといって、彼のことを任せ切ってしまうなんて……。
 篠田に相談してみようかとも思ったが、それはあまりいい考えではないようだった。そもそも守弥がこんな病気に陥るような発端となったのは篠田と犬塚夫人の関係なのだ。病状を悪化させこそすれ、彼がいまの守弥にいい影響を与えることができるとは思えなかった。
 しかし……。
 私は完全に孤立してしまっていた。そして、この問題を、自分ひとりで解決しなければならない状況になってしまっている事実を、改めて思い知った。なぜ、柿本は私なら何かできるかもしれないと思ったのだろう……?
 私は冷静になって、考えを巡らした。私が守弥と出会って以来、彼の精神状態はどんどん良くなってきていたという。確かに、私も彼と時を過ごすのは楽しかった。私たちには美術という共通点があったからだ。私たちは、十九世紀末から二十世紀初頭の絵画や画家たちの生涯について、時を忘れて語り合ったものだった。守弥は自身も画家を志し、そんな彼の若さと大きな夢を、私は羨望せんぼう眼差まなざしをもって見守ったものだ。
 彼と過ごした時間に思いを巡らしているうちに、私はふとあることを思いついた。
 そうだ。私たちの共通点である美術のことを持ち出してみたらどうだろう。守弥の一番の関心事だった、絵画の話を。そして、私たちが話し合っていた事柄を彼に思い出させることができれば、あるいは彼の閉ざされた心を開くきっかけを作れるのではないだろうか……。
 この思いつきは、私に一縷いちるの望みを与えた。上手くいくかどうかわからないが、とにかくやってみる価値はありそうだ。それに、それ以外の何かを考えろと言われても、私にはほかには何も思いつかないのだった。
 よし。
 私は早速柿本を呼び、彼に自分の考えを伝えた。そして、彼の協力を得て、何を置いても私の計画を試してみようということになった。
 
 
 ――夜になると、薬の効き目が薄れてきた守弥は、少しずつ意識を取り戻した。彼は私の顔を見ると、すがるような目つきで、じっと見つめた。私が犬塚夫人と裕人が山を降りたことを告げると、ふっと一つ溜息をついたが、そのことについて彼は何も言わなかった。その顔には、ただ深い絶望の色が表れているだけだった。
 やがて、彼はゆっくりと起き上がった。そして、私の肩につかまりながら台所に行くと、柿本の用意した夕食に手をつけた。まだほとんど食べることができなかったが、それでもわずかながら食べ物を口に運んだ。
「良かった。守弥が起きられるようになって……」
 柿本が言った。
 食事が済むと、守弥は居間へ行き、ソファの上で毛布にくるまってテレビを見た。延々と、内容を追っているのかいないのか、それでも夜半過ぎになるまで、彼はテレビを見続けていた。
 三日間の絶食の結果、彼はすっかり痩せ衰え、顔も土気色で、体じゅうから生気が奪われていた。無残にこけた頬と、焦点を失った目は、あの初めて会った朝の様子を有り有りと私に思い出させた……。
 
 
 私は祖父の離れにやって来るとき、美術に関する書籍のほかに、長年少しずつ集めていた名画の複製画とリトグラフを携えてきていた。いくら絵画を愛しているからといっても、本物を手に入れるなどということはできないので、せめて複製でもと買い集めて心を慰めていたのだ。しかしそれらは原作の絵画の色調や筆遣いの妙をよく捉え、忠実に再現しているものだった。
 翌朝私は、別荘にある空き部屋のひとつを整理し、家具をすべて運び出してしまった。
 それから柿本を連れて離れにおもむき、複製画とリトグラフのコレクションを全部その部屋に移動させた。数にすれば十数点にも満たなかったが、そのすべては額に入れられており、二人で運ぶのにはえらく骨が折れた。だが、柿本は私の言う通りに動き、精力的に働いてくれた。
 私は屋敷の中にある間接照明を集め、その部屋に持ち込んだ。そしてカーテンを閉め切ると、その照明を点けて、光線の具合に注意しながら複製画たちを床の上に慎重に配置した。
「……素敵なギャラリーができましたね」
 柿本がぽつりと言った。本当に、それはちょっとしたおもむきを持つギャラリーだった。私自身もその出来には、ちょっと感心したほどだ。その部屋の床は古い枕木の組み板で、歩くと靴音を心地良く緩和させた。床の上に置かれ、壁に斜めに立てかけられた名画たちは、ほのかな照明の灯りに映し出されて、静かに、しかし奥深い物語をつむいでいた。
 作業がすべて終わったのは、夕方近くになってからだった。守弥は、また居間に座り込んで、一日じゅうテレビを見ていた。だが、いまの彼の場合、ただテレビのほうを向いて座っていた、と言ったほうが正確かもしれない。とにかく、早急に私の考えを実行に移さなければならなかった。彼の体はいよいよもって衰弱が進み、一日でも早く病院に行って、しかるべき処置をしてもらうことを必要としていた。
 私は居間に行き、守弥に声をかけた。相も変わらず彼は私のほうを見向きもしなかった。
 仕方がないので、私と柿本は、両側から彼に近づき、そして両脇から腕を回して、彼を抱え上げた。少々荒っぽい行為だったが、そんなことをされても彼は何も感じないらしく、まるで無抵抗に、私たちにされるがままになっていた。
 私たちは、引きずるようにして、守弥をそのギャラリーの中に連れて入った。
「……ここからは、僕だけで……」
 私は言った。柿本は、無言で私の目を見て強くうなづいた。その目には、彼の切羽詰まった感情と、私への依頼の念が込められていた。

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