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【長編小説】 初夏の追想 26

 月が変わり、東京の美術館で守弥の個展が始まった。
 パリを拠点に活躍する新進気鋭の画家、ということで、多くの人が集まっていた。私もその人々の中に交じり、作品をゆっくりと見て回った。
 その日は十六点の油絵が展示されており、そのほとんどは、風景と人物画であった。アルルであろうか、水辺の美しい景色が、優しいタッチで描かれていた。パリの女友達とおぼしき美しい白人女性の上半身の肖像があった。
 なるほど篠田が話していた通り、その画風は彼がかつて憧れていたゴーギャンのそれからは、遠く離れていた。ゴーギャンのしっかりした輪郭線とは対照的な、非常に繊細な線を守弥は描くようになっていた。色彩にも、タヒチの強い陽光を照り返す鮮やかで力強いゴーギャンの色遣いに比べれば、わざとトーンを落としたような、少し頽廃たいはい的な匂いのする暗影がうかがえる。藤田という名前がフランスの美術関係者から出てきたのも、うなづけるような気がした。
 やがてその中に、りし日の自分の顔を見つけて私は衝撃を受けた。それはごく初期の作品として紹介され、当時守弥が描いたままのもので、その後一切手を入れていないということだった。荒削りな部分が目立ち、のちに彼が描いたほかの作品とは明らかに一線を画していた。
 守弥は『tournant―ターニング・ポイント―』という題を、その絵に付していた。その肖像画を転機として、彼の本格的な画家としての人生が始まった、と、解説にはあった。
 その絵を見ていると、またもや当時のことが色々と思い出されてきた。あの別荘で過ごした日々、山中を吹き抜けていった風の匂いまで……。
 自分の肖像と対面しているにもかかわらず、私の目の前には、あの夏の日、画架イーゼルの前で懸命に絵を描いていた、複雑な精神を持つ美しい少年の象が、再び鮮やかに浮かび上がった。
 
 
 
 ――銀座の小さな画廊の喫茶室で、私は守弥と会った。実に三十年ぶりの再会だった。
「お久しぶりです」
 守弥は言った。彼は四十五歳の、立派な男になっていた。相変わらず線は細いが、年齢にふさわしいいくつかの皺が刻まれ人間味の増した顔は、それでもまだ犬塚夫人の面影を色濃くたたえている。着ている服や居住まいはずいぶんと洗練されて、パリでの生活が確実に彼の持つ雰囲気に影響を及ぼしているのがわかった。彼は向こうでの暮らしについて、ひとしきり語った。
 守弥は、優雅な手振りを交えてゆっくりと喋った。すんなりと長く伸びた彼の腕が、生命に満ち溢れたようによく動く指先が、まるで魔法のように私の目の前で踊った。
「何から話したらいいのか……」
 あるとき急に、守弥は呟いた。すると急に彼のくつろいだ友好的な態度は崩れ、苦悩や悲しみといった固い表情が現れた。彼はこれから私に対して話そうとしていることに、痛みさえ感じているように見えた。
 
「母が死にました」
 
 唐突に守弥は言った。それはまるで、これから話すことがあまりにも深刻であり過ぎるために、話の糸口を見つけあぐねているうちについ口をついて出て来てしまった、迂闊うかつな言葉のように響いた。
「五十四歳の時でした」
 私の返答を待たずに、重ねて守弥は言った。私が何か口を挟めば、今日ここで話そうとしていることをうまく言えなくなってしまうのではないかと恐れてでもいるかのように。
「……何があったんだ?」
 私はようやくこれだけ言葉を返した。
 守弥は思い切るように、小さな溜息をついて、話し始めた。
 
 
 ――守弥が去ったあと、犬塚夫人はときどき喪失感にさいなまれるようになった。彼女はパリに何度も電話をかけてきては、守弥に彼がいない寂しさについて訴えた。――自分はここに勉強するために来ているのだから、どうか理解して我慢して欲しい、と、そのたびに守弥は彼女をなだめたものだが、理屈として頭では理解できても、彼女にとって、心を鎮めるのは簡単なことではなかった。
「何しろ、赤ん坊のころから僕は母の側から離れたことは一度もなかったんですから」
 守弥は小さく笑いながら言った。伏せた瞼には、何か妖しいような影がよぎった。
 守弥はパリで、行方不明だった次兄を探し当てていた。兄は二十代の前半でパリに渡ったあと、現地の女性と結婚していた。女性は先に亡くなっていて、彼女の所有していた小さな美術館の管理や、不動産の取引で生活しているという。守弥は付き合いのある画家のグループ内で、兄を探しているということを普段から話していた。ある美術大学の学生が、知り合いに日本人がいるというので引き合わせてもらったら、それが兄だったというのだ。
 守弥は一度、母をパリに呼んで、次兄と会わせた。犬塚夫人はむせび泣いて兄を抱き締めたという。次兄は長年の不在を詫び、欠落した年月を埋めようとするかのように、彼女の滞在中片時も側を離れなかった。
 守弥はそのとき、母の懊悩おうのうに対するカタストロフは成されたと思った。そして満足して、彼自身も気持ちの整理がついたように、自分の絵画制作へ打ち込めると信じた。彼はまだ若く、未来への展望に情熱を注いでいた。それにそのころは特に、パリでの生活、美術に対する研鑽が何よりも彼の関心を占めていたのだった。
 そういったわけで、彼は段々と母親からの連絡をうとんじるようになっていった。思えば帰国してしばらくたったあのころ、電話口の母親の声が段々と虚ろな感じになっていくのを、自分も感じていないわけではなかった、と、守弥は回想した。
 それでも絵画制作や美術館巡り、夜ごとの社交にふける生活の中で、守弥は母親のことを気にかけるのをつい忘れがちになった。彼女からの電話が、このところひどく間隔が空くようになっていたのも、特に気にしなかった。
 何かいい気晴らしでも見つけたのだろう、それぐらいに思っていた。
 
 ――嵐の前には、そのあとに吹き荒れるそれに相応の、静けさが訪れるものだ。
 
 守弥はすべてをあとになって知った。彼がそれを知らされたときには、もうすべてが終わっていた。
 守弥は帰国して、長兄の裕人ひろとから事の次第を聞かされた。
 
 裕人はそれ、、を目の当たりにしていた。
「……何とも恐ろしい、ゾッとするような光景だったよ」
 いつもならどんなことがあっても平静さを崩さない裕人が、額を手で覆いながらやるせなさそうに首をひねった。

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