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頭で理解する事と物事の本質を理解する事は別物

よく本を読んだり人から聞いて、知識を積んでる人がいる。沢山の情報を頭の中にインプットして、それで物事とはこういうことだといった形で周りの人に自分の理解をアピールする。

でも、実際問題その人はその知識を持っているだけで、経験したり、体験したりすることはない。百聞は一見に如かずという言葉があるが、まさにその通りで、頭で理解しようとする人が、物事の構造や成り立ちを、本で100回読んで、他人から100回聞いたところで、なにかの形で物事の本質に触れる体験を1度でもしたことのある人からすれば、ほぼ知らないのと同じこと。そこには雲泥の差がある。

だけど、本質というものに一度も触れた事がない人にとっては、頭に入ってきた情報でなにもかもわかったような状態になってしまう。全くその知識もない人からすれば、その人はすごい事を知っていると思うかもしれない。実体験もないのに、頭の中の空論で物事を伝えている人を見て、同じ土俵にいる人はその人の言う事に関心を寄せるかもしれないし、尊敬の眼差しで見るかもしれない、とても知識のある人だと思うかもしれない。けれど、本質を知っている人が、頭で理解しているつもりの人にたとえなにかを聞いたとしても本当の深い理解がある訳ではないので、その人は答えられない。

本質を理解している人は頭での知識ではなく、悟った時の智慧をその体に宿しているから、他の人に話した所でなかなか理解できない、されないということもわかっている。だから、むやみにその智慧をひけらかす事もなく、ただ、じっと物事の本質と向き合い、感じているのだろう。本質を知っているからこそ、むやみやたらに表にも出さない。

何故か?それは、間違った解釈をされて、本質とずれていくことを嫌うから。実際にわからない人に話すと、聞いた人は自分の認識のレベルで物事を捉える。そこに解釈のレベルがある為、わからないこと、理解出来ない事があると、人間は聞かないか、自分の都合の良い解釈に変えてしまう。

それこそが、物事の本質をずらしてしまう原因にもなるのだが、世の中にはそういった形で、間違った解釈が出回ってしまっているのだ。そして、違った解釈を正しいものだと思って、ネット上にコピペしながら多くの人があげていくと、いつの間にか間違った解釈が正しいものとして、世の中では当たり前のことになってしまう。

あとからその解釈は間違っていると、本当に理解している人が言ったとしても、もう世の中では間違った解釈が一般的になってしまっている為、本質を知っている人が、逆に違う事を言ってる人という見方になってしまう。

物事の本質を理解できる人なんて一握りしかいないのだろう。でなければ、今世の中にでているものに異論を唱える人がもっといてもいいはずだ。

だけど、皆、物事の本質に触れた事がなければ、異論を唱えることも、おかしいと気づくこともできない。ただ、目の前のものはこういう物なんだ位で、目に止まる事もない。自分に不都合だから、感情的になって、文句を言ったり、けちを付ける人は多くいるかもしれないが、物事の本質と向き合って正しく異論を唱える事とは全く別の事。

それだけ、頭で理解することと、物事の本質を理解するということの差は大きい。本質を理解している人は静かにその境地に入って行って物事を俯瞰して見ている。俺はこんな事知ってるんだと鼻高々に話をしてる人がいたとしても、それが違うとも言わず、その人を哀れにすら思うのだろう。こんな事で知っているということにしてしまうその人を見て。それだけ、真実を知っている人にとっては、逆の意味で苦悩もあるし、悲しい思いもしているということを私たちは知る必要があるのではないだろうか。

物事の本質を理解し、そのうえで人生を生きていきたいものだ。

本質を理解する為には、毎日正しく物事を捉え、疑問を持ち、考え、自分の心眼で物事が見れるようにしていかなければならない。自分自身が持っている感情を見つめ直し、内省していかなければ、その境地には一生辿り着けないだろう。

自分の闇に入っていき、そして影と闘わずして、世の中で偉人と言われる人達のようにはなれない。

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