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分別できない紫色の障害へ #未来のためにできること

文藝春秋とnoteで#未来のためにできることをテーマに「文藝春秋SDGsエッセイ大賞2024」とした投稿コンテストです。以下本文になります。(本文1,000字以内)


私は紫色の障害を持っている。人が生物学的な分別で赤と青に分けられるなら、私はどちらにも属さない紫なのだ。紫の中でもグラデーションがある。赤色に限りなく近い紫色、遠目で見れば青に見える紫色。人が人を分けるなら、私は『分けられない』に分別された真紫の人間である。

そのグラデーションによって限りなく赤か青に近ければ、その人は『少し生きにくさを感じるフツウ』に分別されるだろう。問題なし、健康な人間だ。普段は光や影の色によって赤や青になって、どちらかにすり寄ってフツウの人生を歩んでいく。だけど、どう見ても紫の私には赤か青にも近づけず、カメレオンみたいに擬態化して色をコロッと変えることさえできない。

世界には紫色の人間が居る。赤と青をしっかり混ぜた、新しい色として確立された紫という色が。障害の程度は、濃いか薄いかで決まるんだと思う。私のドーパミンが欠けた前頭葉がそう言ってる。紫は美しいけれど目立つから、私は時々やいのやいのと指さされ、バカにされる。何故赤でも青でもなく産んだかと親を困惑させる。恋人たちは絶句して別れていく。

人は人が考えた分別の箱に入っていないと混乱するようだ。でも、混乱して立ち去っていくならそれくらいの付き合いだと言えるほど、私の心は強くない。しっかり傷ついて、紫色の心臓から血をドクドク流して泣いていく。

自分がフツウだと思って暮らしている時に、一瞬自分が赤か青かに分別されているように感じることがある。差別されているときは分別すること自体に怒りが沸くのに、何だかんだ言って人はどこまでも分別されたいのだ。

そうはいっても色は見えない。ゲームのキャラクターのように頭の上に色が乗っかっているわけでもないし、逆立ちしたってポロッとでてくるものでもない。ヘルプマークで表現する分かりやすい人もいるけど、私みたいにフツウに憧れた障害者はヘルプマークさえ拒むから本当の私をみんな知らない。

知らなくったっていい。知らなくったっていいけど、知った時には頷いて欲しい。社会は一人一人の集合体だ。あの時の嫌な経験だって、その人の考え方を左右させているのは社会なのだから、これから変わっていくといい。

そして色で見ないで欲しい。
君が、私が、青でも赤でも紫でも、そんなことより私を愛して欲しい。純粋に人として、障害である前に人として、私を愛して欲しい。

こんなことを言うのは、わがままなのだろうか。

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