【相模原障害者殺人事件から考える】結局、障害者は幸せになってはいけないのか
人には誰しも欠陥がある。たとえば緊張しいだったり、人見知りだったり、本番で練習の成果を発揮できないとか、言葉にして繋げたら地球一周分はあると思う。でもそれが私みたいにADHDとして認定されたり、事故で足をなくしたり、生まれた時から耳が聞こえなかったりしたら、それは「障害」になる。欠損=障害なのだろうか。あなたはどう考える。
私はそうは考えない。自分が障害者だからそう思いたくないのかもしれない。だけど障害を持ってない人生を知らないから、どの記事だって発達障害者が執筆したものという括りからは外れることは決してない。
前に障害年金の話をした。生活にかかるお金についても考えてみて欲しい。詳しくは記事へ↓↓
確かに障害の程度が重ければ障害年金は受け取れる。でも、でも障害者の賃金自体が低いじゃない。結局年金と合わせてみても、同年代と比べたら信じられないほど差が開く。だってほぼ最低賃金だもの。最低賃金レベルの仕事しか出来ないって思ってるってことでしょ。これ以上出せないし期待もしないということでしょ。ねえ、これってそういうことでしょ。ハッキリ言って、目に見えた差別だと思う。だから私はクローズして就労してる。でも出来ない人だって居る。クローズしててもかなり辛い。障害グレーゾーンの人だって辛い。手帳で認めてもらえず、生きにくさはそのままで、障害年金さえも受給できない。全てが中途半端になってしまい、それすらもストレスの原因となる。
金が無ければ。金が無ければ彼女と高級レストランでプロポーズなんて出来ない、スイッチを買ってみんなと遊べない、気軽に友達を誘って月に何回か飲みにも行けない。「フツウの日常を送れない。」
社会はLGBTQに注目してる。でも障害者も見て欲しい。奇声を出す人も本当は声を出したくないかもしれない、車椅子の人は走り回りたいのかもしれない、目が見えない人は色の鮮やかさに触れてみたいのかもしれない。そして発達障害者は、豊かにコミュニケーションを育み、集中しながら仕事をしたいのかもしれない。
2016年に相模原障害者殺傷事件が起きた。
犯人には沢山の背景があるが、事件の動機をこう語っている。
さらに、亡くなった障害者の名前を非公表にした遺族は、非公表にした理由をこう語っている。
私はこの事件が起きた時、「社会」から胸から背中まで貫通してナイフが刺さったと思った。
「社会」から死ねと言われているように感じた。
遺族が故人の名前を言えないなんて、そんなことあるかと悲しくなる。確かに家族に障害者が居ると根掘り葉掘り聞かれるかもしれない。一家の恥かもしれない。親が大企業で良いポストに就いていたら、障害児が居るだけでそのキラキラ輝く名誉が台無しになるのかもしれない。
待ってよ。なんで台無しになるの。なんで、台無しになるの?だから言えないの?なんで言えないの?障害者は死んだ方がいい?最初から無かったことにした方が楽?その人の意思はないの?なんであなたが決めるの?それって私のことじゃないの?ねえ、なんで。どうして。
障害者は、時に人として扱われないことがある。これは重大な人権侵害だし、ただ一方で遺族の方の意思は尊重すべきだ。私が言っているのはあくまで一般論である。
考えてみて欲しい。家族から軽蔑されることを。
考えてみて欲しい。病棟に閉じ込められる苦しさを。
考えてみて欲しい。世界に要らないと放り出される虚しさを。
障害は、そこまで悪いのかな。
障害者は、居なければ居ないほど、いいのかな。
神様がいるのなら教えて欲しい。
私は遺伝子のバグでハンデを背負ってる。そろそろこの重荷を、リュックを降ろしたいよ。
"健康に生まれて当たり前、当たり前に小中高、大学まで出れたら十分、将来は優良企業で働き、結婚し、子供を授かる。"
これは、どれだけの人ができているのだろうか。
そしてこれを、フツウと呼ぶのだろうか。
私には、永遠の理想のようにしか見えない。
多様性と障害者は≒の関係だと思ってる。色んな障害はあるけど認めて欲しいとか、理解して欲しいとかそこまでは求めてない。欲しいのは「フツウの暮らし」。人として当たり前の生活だ。
LGBTQだから賃金は下がるだろうか。そうじゃないだろう。じゃあどうして障害者の賃金は低いの。障害者はカミングアウトするだけで縁が切られる事もある。そこは同じかもしれない。
だけどLGBTQの何に該当して詳しく話をする時、相手は「受け入れようと」話を聞かないか?
障害についてカミングアウトしたら、「そんなつらいことが…」と蔑んで同情してないか?
障害者の認知はどこまで進んでるんだろう。
私はまだ半歩も進んでいないと思う。
正直LGBTQが羨ましい。私たちだって脚光を浴びたい。生きてきた証を残したい。認められたい。社会に、社会に抱きしめられたい。産まれて良かった実感を、震わせながら全身で浴びたい。
結局、障害者は幸せになってはいけないのだろうか。金持ちになって豪遊もいいし、ささやかに愛する人とともに美味しいディナーに行っちゃいけないのだろうか。
障害者だって欲張りだ。強情だし、やっぱり本能のままに生きたい。みんなが描く幸せと同じ幸せ像を持ってる。だって人間だもの。
障害者は幸せになってはいけない、ことはない。
ただその術が少ない。
その多くは幸せになれない。
幸せを知らず死んでいくのは、
あまりに悲しすぎる。
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