「吹きガラス 妙なるかたち、技の妙」@サントリー美術館。①では展示の中でも異色の「第Ⅴ章:広がる可能性 ――現代アートとしての吹きガラス」についてまとめた。
今回ははじめに戻り、ガラスという素材と、技術の進歩にともなう洗練の歴史を見ていく。
なお、館内は基本撮影禁止だが、各章で数点程度の撮影許可作品があった。その写真をもとに、感想とともに振り返っていく。
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古代の吹きガラス-注ぎ口の作り方
解説にある「道具が限られた」時代とはいえ、ものの形として現代から観ても違和感がないところがわたしには興味深く感じられた。当たり前すぎてあまり考えたことのない、ガラス瓶のきれいな円形が、吹きガラスという技術なのだと改めて認識した。
それから「注ぎ口」はどうやって作るのだろうという疑問。
把手も注ぎ口も「外付け」したもののようにわたしには見えるのだけど、考えてみればそれは難しい。注ぎ口は息を吹き込みながら道具で引っ張って作る。なるほど。
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「ホットワーク」の技術
「ホット」という単語から、高熱という過酷な状況下が想起される。道具なしでは修正もできない世界。そしてたしかに複数人でないと難しそうだ。職人というと徒弟制度が思い浮かぶが、お互いの技量を知り尽くした阿吽の呼吸の下で、作品が完成していったのだろう。
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薄手のガラスには理由があった
儚げな薄手のガラスの器は、素材を限りなく薄く伸ばしていく、という、技術力の高さを示すものだと思っていた。
そういう一面もあるのかもしれないが、説明書きにあったように、「厚く大きな器を作る技術がなかったがために→薄く華奢なほうへと進化していった」という話は、「アジア的」といわれるほかのものを想像したときも含めて、示唆に富んでいる。
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多彩な氷コップ(かき氷入れ)の世界
ハンドメイドらしさが感じられる素朴さが愛らしい。それぞれに付けられたタイトルも涼やかだ。
そして、どこかレトロな懐かしさを誘うというのももちろんあるかもしれないが、現代のセンスから見ても特に逸脱しておらず、いやむしろ、「雑貨屋さんで買って来ました」、と言われて卓上に置かれても、おしゃれな器として受け入れてしまいそうだ。
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技術発展、そして手仕事
あまり予備知識もなく訪れ、展示から歴史を知ることで得た感想は、(特に、食卓で使う道具という出発点だから当然なのだけど)、ガラスの器の形状のパターンは、はるか古代にすでに出尽くしている。
そしてあとはその時代の技術に応じて、厚さや薄さ、大きさ、技巧を凝らすかシンプルな線を求めるか、という選択が現代まで続いているということだ。
ホットワークを手掛けた職人たちは、機械のような完璧さを求めて技を磨いていたと思う。でもはるか後年からわたしのような者がその作品を見れば、ほんの少しだけ曲がっているといったところに、いい意味でも隙というか、手仕事の痕跡を見て職人の姿を思い浮かべたりする。
前回書いたように、この展覧会では、ガラス素材のアート表現も含めて、期せずして大きな発見があったように思う。
それだけ自分のなかで、「ガラス」というものに対する固定観念が定着していた。それを静かにかき回したことで、世界が少し新しく見えてきた気がする。