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草間彌生「赤かぼちゃ」(直島)の中に独り佇み、世界を眺めた朝

 草間彌生が「太陽の『赤い光』を宇宙の果てまで探してきて、それは直島の海の中で赤カボチャに変身してしまった」と自ら語る「赤かぼちゃ」。フェリーが発着する宮浦港のパブリックアートで、直島の顔でもある。

 常にファンたちに取り囲まれているこの作品だが、瀬戸内国際芸術祭2022の開催期間中にもかかわらず、作品の中でひとり、時間を過ごした。

■美術館休館の月曜日、朝9時過ぎ

屋外展示作品「赤かぼちゃ」(作品No. na01)の周囲には人が絶えない(フェリーから撮影)

 その日は、このごろ通いつめている地中美術館の休館日だったので、宇野港でアート作品を観ようとしていた。高松が拠点なので、どのみち直島に渡り、乗り換えて宇野港に行くことになる。乗り換えまでに小一時間の待ち時間があり、散歩か読書でもしようと考えていた。

 美術館休館の日に直島に渡ろうとする乗客には、乗船チケット購入の際に確認があるほど。つまり、そもそも休館日に直島に渡ろうとする観光客が絶対的に少なく、しかも、朝8時台のフェリーは、通勤と思われる人が中心だった。芸術祭開催期間中と思えないほどの静けさだった。

 フェリーが直島に近づくと、ついデッキから「赤かぼちゃ」を探してしまうのだけど、その日は朝もやの中で、作品の周囲には人の気配がなかった。

 人のいない「赤かぼちゃ」は、わたしにとっては珍しい経験で、つい「今のうちに写真を」と急ぎ足になってしまったが、その必要もなかった。

 宇野港行のフェリーは同じ場所から出航するので、フェリーが見えてから移動してもじゅうぶん間に合う(乗り放題のチケットも持っていたし)。

■赤かぼちゃの「胎内」から世界を観る

 中に入ってみる。

 ポップな水玉アーティストと誤解されがちな草間作品の、よく鑑賞すればかわいらしさの中に垣間見える怖さのようなもの、に鑑賞者は惹かれると思うのだけど、「赤かぼちゃ」の胎内でも、それを感じた。

KUSAMA 愛、芸術、そして強迫観念」p54-55
エリーザ・マチェッラーリ(著/文)栗原 俊秀(翻訳) 花伝社
草間彌生の半生を深く掘り下げたグラフィックノベル

 床には、濃いピンク、薄いピンク、白の「水玉模様」が各12、合計36個。それらは窓から入り込む光にも、床に空いた穴に見えなくもない。

 水玉のシルエットに沿ってくりぬかれた出入口と窓から日が射しこむ。曇天でもこの光なので、晴れた日には強烈なコントラストになるだろう。

■厚い皮に守られながら、世界とかかわる

 20分ほどを経過したあと、おそらく次の船がくるまで、ここにはだれも来ないだろうと悟った。

 落ち着いて佇んでみれば、遠くでは芝生の手入れなどの作業が行われていて、その音が響いていた。そのほかに聞こえるのは、波の音と風の音。なんて静かで、落ち着ける空間なのだろう。

分厚い皮に手をかけてみる。守られた空間から世界を覗く

 「窓」のひとつに手をかけて外を観れば、そこには美しい直島の港。空と海の美しい世界が広がっている。そして自分は、厚い皮に守られている。

 わたしはアートの専門家ではないし、草間作品のファンのひとりに過ぎないのだけど、もしかして、赤かぼちゃはもしかして、この「厚い皮」が胆なのか?と感じた。

 厚い皮という「隔てるべきもの」を経て、世界と関りを持つ。それが自分にとっていちばんよい状態のときもある。皮は時折、自分を守るだけでなく、人を寄せ付けない殻となり、孤独を作り出すかもしれない。ただそうあったとしても、殻を必要とする人がいるし、そこから出ていく人も、戻る人もいるかもしれない。それでよい。

空を望む。波の音が聞こえる

■窓からフェリー入港を観る

 気づくと、訪れてから45分が過ぎていた。宇野港行のフェリーが入港し、港には慌ただしさが戻ってきた。

フェリー「あさひ」入港。そろそろここから出る時間

■殻から出る。世界は変わっているか

 赤かぼちゃから「出る」。小説などでは、こういう特殊な場所に「入った」ときと「出た」ときでは、大きく、あるいは微妙に世界が変わっていたりする(もちろん、新しい経験がひとつ増えたので、その人にとって、何かは変わっているはずだけど)。

 今回の自分はといえば、まだ言葉にはならない「ああ」という納得感が全身にこみあげてきていた。今の時点での、赤かぼちゃの「中で」考える作業は終了したたのかな、と感じた。

赤かぼちゃの中から、海の駅「なおしま」を望む

 これも、どこかの小説にありそうな描写だが、ひとりで、納得できるくらいのちょうどいい時間、この場所での時間が得られたことは偶然がもたらすプレゼントのようなもので、今回はたまたまそれを手にできた。そして、得るべきものを得た。これからそれは、じわじわと、わたしのなかで溶けていくのだろう。

 インプットの時間はフェリー入港とともに終わり、扉は閉じた。わたしはこれから、芸術祭を楽しみに戻る。今過ごしたこの時間は、幸運な寄り道だったということだろう。

 実際、その後数回、直島を訪れた際、赤かぼちゃの周囲は撮影待ちの人々が取り巻く、幸せそうな空間となっていた。

 訪れる人の鏡となり、見たいものを見せてくれ、知りたいことを深化させてくれる。それが、優れた芸術作品ということなのかもしれない。

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